鳥嶋和彦の言うマンガ家・三浦建太郎の遺書と満腹の状態で選ぶ情報について。
『ベルセルク』の作者、三浦建太郎が亡くなったことが報じられた際に友人へ送った内容の文章が出てきたので、掲載させていただきます。
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今回『ベルセルク』が未完の名作漫画となってしまったことを受け、思い出したことがあります。
最近の桜庭一樹の挑戦をご存じですか?
手塚治虫の「火の鳥」は「大地編」なる構想だけで描かれなかったそうで、その続編を桜庭一樹が『小説 火の鳥 大地編』として書き、朝日新聞の別刷りで2019年4月から2020年9月まで連載していたんです。
ちなみに、手塚治虫が残した「大地編」は、たった原稿用紙2枚と5行のシノプシスだけだったとのことで、桜庭一樹は依頼があってからの2年間、資料を読み込み小説が読めない日々を過ごしていた、とインタビューで答えていました。
火の鳥の漫画の最後が1989年なので、30数年の時が経ってから小説という形での幻の続編。
当然、それは手塚治虫が描いたものではありませんが、30年という月日によって、また揺るがぬリスペクトによって許された挑戦だったのではないか、と僕は考えます。
また、桜庭一樹という作家のテーマからしても、実は手塚治虫との相性は良いんですよね。
参照URLです。
未完の名作すべてが続編ないし、完結を描かれるべきだと僕は思っている訳ではありませんが、丁度今年3月に『小説 火の鳥 大地編』が出版されていたので。
話を戻して、では未完の名作漫画に対して、僕たちにできることはなんだろう、と少し考えてみました。
僕は『ベルセルク』という作品よりも、三浦建太郎という才能がこの世から失われたことを切なく思います。
残された読者として考えるなら、一つの作品が描かれる背景には膨大な資料と背景が存在したはずです。三浦建太郎が残した資料、インタビューなどを丁寧に読み込み、冷静に積み重ねていくことが「全く別のオリジナル作品を生み出すキッカケ」になるのではないか、と思います。
綺麗に咲いた花はそれ自体で存在している訳ではなく、花を支える花茎、葉っぱ、茎、根っこ、土といったものがあって成立しています。
花だけを観察しても、なぜ花が咲いているのか分からないように、『ベルセルク』を読むだけでは見えてこないものは必ずあるので、この機会に三浦建太郎という漫画家にフォーカスを当てて、彼が何を読んで『ベルセルク』のような揺るがぬファンタジー作品を作ったのか、という根幹を多くの人が学び取ることで、今後より豊かな作品群が生まれることを僕は望みます。
また、残された読者の一端として、三浦建太郎のインタビューを読む漁っていると、バンド・デシネ(フランス・ベルギーなどを中心とした地域の漫画)を読まれていたことなどが語られていて、幅広いなぁと知識の奥深さに敬意を抱くほかありません。
ちなみに、ツイッターなどでは『ベルセルク』の「蝕」の元ネタは小松左京の「ゴルディアスの結び目」なんだ、というのもあって、三浦建太郎(1966年生まれ)らが生きたバブル世代?の人って、小松左京をみんな読んでいるよなぁと思います。
ただ、インタビューとか読むと、「蝕」はデビルマン好きならやらないと!って言っていて、その使命感はなんだ!ってなったりしました。笑
庵野秀明が1960年生まれで、オタク第一世代って言われている訳ですが、この辺の小松左京とかデビルマン、ウルトラマン、バンド・デシネまで把握し教養としている人たちはクリエイターとしての芯の強さはゆとり世代を生きる僕としては、バケモノとしか言いようがないです。
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鳥山明や桂正和らの担当編集として活躍し、「Dr.スランプ」に登場するDr.マシリトのモデルにもなった鬼の編集者・鳥嶋和彦と三浦建太郎の対談がネットにあって、全文読んでもらいたいレベルの内容でした。
一部、個人的に鳥嶋和彦の「ベルセルク」13巻、蝕に対するこだわりは凄まじかったので、引用させてください。
鳥嶋 「ベルセルク」を読んで、僕が担当だったなら「絶対にやらせない!」というところがあります。10巻の、グリフィスがこれからどう上がっていくかというところで、シャルロットに手を出していとも簡単に堕ちていくところ。これは本当につらい!「三浦先生はここから作品をエスカレーションさせようとしているんだな、13巻への一連の流れが描きたいんだろうな、『デビルマン』(永井豪)のオマージュなんだろうな……」と伝わってきます。でも僕は「デビルマン」をリアルタイムで読んでいて、あの暴走は少年マンガとしてはまずいところに入ってしまったと思っていました。「ベルセルク」も、グリフィスが堕ちた時点で13巻の蝕に行きつくことが決まってしまったけれど、本来、キャラクターはそんなに簡単に堕としちゃいけないんですよ
鳥嶋 重ね重ね言うけれど、僕が担当編集だったらグリフィスを堕とさせない。13巻であなたはすべてを出し尽くして、すごい気持ちよかったというのはわかるけれど、あの瞬間、その後のモチベーションがなくなったはず。
三浦 モチベーションという言葉に当てはまるかはわかりませんが、鷹の団から蝕までは人間関係など僕の中のものをすべて出していたので、その後は工夫して考えなければいけなくはなりましたね。
鳥嶋 あなたは確信犯で、13巻を描くためにやっていたところがあると思う。だからこそ描いて、後悔したんじゃないですか?
三浦 けれどもあの展開を描き切らないと、マンガ家としての寿命が短くなる気がしたんですよね。
鳥嶋 僕と出会っていればもっと寿命が延びていたのに! 確かにあなたが描くことは正しいんだ。それでも編集者は別の形を提案できた。グリフィスが堕ちるところが分水嶺で、あそこを越えてしまったら蝕に行くしかない。僕にとってあの13巻は、マンガ家・三浦建太郎の遺書に見えたんです。
マンガ家・三浦建太郎の遺書!!!
これに反応してしまったんですが、全文を読むと鳥嶋和彦が「ベルセルク」という漫画が如何に歪な形をしているかってことを、懇々と詰めているんですよね。
そして、「確かにあなたが描くことは正しい」という言葉。
鳥嶋和彦は物語として正しいことを描き「すべてを出し尽く」す三浦建太郎を編集者として否定している。
けれど、三浦建太郎は「マンガ家としての寿命」を伸ばす為に、グリフィスを堕としたし、鳥嶋和彦の指摘する歪さがあるからこそ、「ベルセルク」は唯一無二の名作マンガになった気もするしなぁ。
なんにしても、デビルマンの影響凄まじすぎますやん!
あと、過去の教養云々の部分について、鳥嶋和彦が答えっぽいことを言っていました。
三浦 今のネット社会で生きている若者と、それがなかった時代の若者とでは印象は違いますか?
鳥嶋 それは「何かが増えるということは、豊かさに繋がるか?」という問題に関係していますね。
三浦 僕としては「今が豊かか?」と言われたら疑問ですね。
鳥嶋 簡単に言ってしまえば「空腹は最高の調味料」なんです。情報に関しても同じこと。
三浦 けれども今はそういった人たちがマンガの読者となるわけですよね。
鳥嶋 そこがまず考えるべきところで、本当にその人たちは僕たちにとってのお客だろうか?
三浦 違うんですか?
つまるところ、僕たちは常に満腹の状態で、スーパーへ行って食材を選んで料理をしないといけなくなっていて、満腹故に細かな味の判別も、他の料理との差異を見極めることもできず、似たような調味料を使ってしまっているんでしょうね。
この「空腹は最高の調味料」について二階堂ふみと鈴木杏の対談に近いけど、多分こちらの方が正しい感じのやりとりがあったので、こちらもついでに。笑
杏:そうなの。この間、ナレーションをしている『True Stories』(TOKYO FM)で向田邦子さんを取りあげたときは、「愛してる」みたいな肝心な言葉を向田さんは決して脚本に書かなかったと。その行間をお芝居を観る人に読みとってもらう時代だったんだよね。
でも今はすぐ言っちゃうじゃない? それはSNSで短時間にコミュニケーションを取るようになった、その小さな波がエンターテイメントに押し寄せてきた結果なのかもなって。そういった変化のなかで、変わらずコツコツやるのが私たちの仕事だと思ったりする。ふみちゃんはどう?
ふみ:それは絶対に言葉にしちゃいけない、みたいなことすらも平気で言葉にしてしまう時代ですよね。杏ちゃまが言うような性急なコミュニケーションが感受性を麻痺させてしまった気がするし、肩をぶつけられたらイラっとしてしまうのと同じで、そういう言葉を浴びせられつづけると、自分もそういう言葉を持ちかねなくなってしまうのが怖いなって。
それはこうやって対峙する相手との言葉じゃなくて、見えない人たちの言葉に慣れてしまった怖さなのかなって感じます。
満腹状態でかつ、「絶対に言葉にしちゃいけない、みたいなことすらも平気で言葉にしてしまう時代」の弊害で。
僕たちの触れる情報には、想像力を働かせられる余白がない、ってことも問題なのかも知れないなぁと思う次第です。
逆に言えば、庵野秀明や三浦建太郎の時代には言葉にならない言葉があって、想像の余地も守られていたんでしょうね。
それ故に、教養というものが成立していた、のかな? なんて考えてしまいます。
サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。