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「他ならぬこの私」を誰が愛するのか分からないが、あなたを一人にしない。

 間違った人を好きになったことってありますか?

 人を好きなるのは理屈じゃない。
 という意見もありますので、正しい問いは「好きになった後に、間違っちゃったなと思ったことはありますか?」かも知れません。

 僕個人で言えば間違ったと思ったことはありませんが、今なら好きにならないし、選ばないだろうなって人はいます。
 詰まらない意見ですね。
 というか、僕の恋愛に誰が興味あるんだって話ですね。

 個人的な体験は無視して最近ふと、恋愛において正しい相手と結ばれるよりも、間違った(と思っていた)相手と結ばれることの方が人を成熟させるのではないか、と考えるようになりました。
 そのきっかけは、いくえみ稜の「潔く柔く」を読んだからでした。

 僕は、恋愛において正しい相手と間違った相手という分け方をしています(あくまで物語上ですが)。
 その違いはどういうものを指すのか。
 まずはそれについて書かせてください。

 僕の好きな批評家の一人に石原千秋という方がいます。
 石原千秋が夏目漱石の後期三部作「彼岸過迄」「行人」「こころ」の主人公は「他ならぬこの私とは何か」を追求し続けていたと書きます。

 この「他ならぬこの私とは何か」という問いに答えはなく、『他者と関わった自分を不純な要素を含んだ自分としてラッキョウの皮剥きのように剥き続けて「他ならぬこの自分」を探していくなら、残るのは自分は「無」でしかないという虚無感だけだろう。』という結論に至ります。
 その上で、以下のように石原千秋は書きます。

 アイデンティティは「自分による自分の承認」と「他者による自分の承認」という二つの面によって成り立っている。
「他ならぬこの私」という内的な感覚が「無」に行き着くしかないとすれば、「他ならぬこの私」の「他者による自分の承認」を「愛」によってなし遂げてくれる女性がただ一人だけいるはずだと、この主人公たちは思い込んだ。
 そこに、彼らの悲劇があった。

 つまり恋愛における正しい相手とは自らのアイデンティティを担保してくれる人と言うことになります。
「他ならぬこの私」を相手に求めるのは石原千秋いわく、悲劇です。
 例えば、それを突き詰めるのなら、批評家の江藤淳が妻の死後、後を追って自殺したような結果にならざるおえなくなります。

 自らの自立を失わせる関係性を僕は良しと出来ません。
 それ故に僕は正しい相手よりも、間違った相手と恋愛をすべきなんじゃないかと考えているのかもしれません。
 などと書いて、思い浮かぶのは江國香織のエッセイの一部です。引用させてください。

 正しさに拘泥したら結婚なんてできない。私は夫に、私をどんどん甘やかしてほしいと思っている。正しくなくてもいいからどんどん甘やかして、夫がいないと何もできないというふうにしてほしい。そうすればここにいることが私の必然になるし、逆にいうと、そうでないとここにいる必然性がなくなってしまうのだ。

 ここにいる必然性。
 つまるところ、自分を承認してくれる人です。

 恋愛における正しい人を選ぶことは、現実における正しさを無視する選択であるようです。そのような理解の上で「潔く柔く」について書いてみたいと思います。

「潔く柔く」は全13巻の少女漫画で10章に分れています。
 全体を通しての物語は当然あるのですが、10章に分れている全ての視点人物が異なり、時系列もバラバラです。
 共通するキャラクターはいますが、視点人物の主観が混ざった認識はキャラクターの内面を正確に掬いあげません。

「潔く柔く」は順番通り読み進めていき、パズルが一つ一つ嵌まっていくのを楽しむような少女漫画と言えます。
 そんな「潔く柔く」の冒頭は以下のように始まります。

 いっしょに
 いられればいい
 ただ
 いっしょに
 それだけじゃあ ないけど
 とりあえず
 そんだけ

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 この冒頭は全体を突き通す一つのテーマを正確に書き出しています。
 ただ一緒にいられればいい。
 それがどれだけ大変か、ということが続くACT2で高校生の男女二組の仲良しグループによって描かれます。
 村上春樹が「放っておいても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。」と書いています。「死」については置いておくとして、「寝る」という行為を恋愛、あるいは家族(特別)を作ると認識すると、なるほどと納得できます。
「潔く柔く」のACT2で描かれるのは、恋愛をしないことの難しさです。高校生の親しい男女4人組が互いに惹かれあって、特別に想い合わないでいられる訳もなく、「ただ一緒にいられればいい」より先へと進もうとしてしまいます。

 人類史的に見ても家族(特別)を作らない、という取り組みはあったそうですが、悉く失敗しているらしいです。
 放っておくと人は家族を作ってしまいます。
 そして、人は放っておくと死にます。

 ACT2でハルタという15歳の男の子が死にます。
「潔く柔く」は言ってしまえば、そのハルタという亡くなってしまった男の子を巡る物語です。

 そう語ってしまう時、取りこぼしてしまう部分はあります。
 しかし、僕は「潔く柔く」は、亡くなってしまったハルタという男の子に恋をした女の子たちの物語として捉えたいと思います。

 そんな皆に恋心を抱かれていたハルタには想いを寄せる女の子がいました。
 幼馴染の瀬戸カンナです。前半の議論を引っ張ってくるなら、ハルタにとって正しい相手はカンナです。

「他ならぬこの私」をハルタはカンナに承認してもらいたいと願っています。自分だけを見てほしい、と。
 しかし、その願いを前にしてハルタは躊躇します。

 該当の箇所を本文から引用させてください。

 不思議だよな
 踏み出そうとしても
 なんでか足がすくむんだ
 どっかに落とし穴がある気がして
 落ちたら もう
 戻れないんじゃないか
 と思うと ビビる……

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 繰り返しますが、「他ならぬこの私」を相手に担保してもらおうとした時、その先にあるのは悲劇です。

 だから、私は私。
 あなたはあなた。
「潔く柔く」の冒頭にある通り、「ただ一緒にいられればいい」もちろん、それだけじゃないけれど、「とりあえず それだけ」であることが恋愛においての一つの理想なのではないのか、と僕は思います。

 恋愛とはそういうものではない。
 というような意見も出てきそうな気がします。

 それこそ、江國香織が書くような「正しくなくてもいいからどんどん甘やかして、夫がいないと何もできないというふうにしてほしい。そうすればここにいることが私の必然になる」ことこそが、恋愛(結婚)の理想だという考えかたもできると思います。

 何が正しいのかは恋愛をする本人が決めるべきでしょう。
 ただ、「潔く柔く」の結論は「あなたを一人にしない」為に一緒にいるでした。僕は「とりあえず それだけ」で良いと思います。

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 今回ぱらぱらと「潔く柔く」を読み返して思ったのですが、15歳で事故で亡くなるハルタという男の子が「ノルウェイの森」のキズキくんに思えて仕方ありませんでした。

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 あくまで状況が似ているだけで、「潔く柔く」のハルタと「ノルウェイの森」のキズキくんはまったく別であることは分かっているんですけれども。

 あと、「潔く柔く」の好きなキャラクターは小峰清正こと「キヨ」です。少女漫画好きの男の子って、もうその時点でポイント高くないですか?

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