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日記 2020年4月 僕はまだ自分の言葉を持っていないのかも知れない。

 4月19日(日)

 日曜日に出勤すると、同期の子と10日ぶりに顔を合わせる。
「本当に久しぶりだね」
 と互いに言い合う。
 僕らは去年の5月からずっと隣の席で仕事をしてきていて、職場で顔を合わすのが当然の生活だった。
 そういう背景があったせいか同期の顔を見た瞬間、思いのほか安心してしまった。
 同期はパチンコへ行けない日々をどのように乗り越えているのか聞きたかったのだが、周囲に上司が仕事をしている中で聞くことができなかった。
 本当に残念だ。
 昼休みにカクヨムで仲良くしていただいてる方から、ツイッターにDMが届く。
「しばらくカクヨムをお休みすることにしました。」
 と報告をいただく。
 すぐに返信ができなかった。
 その方は僕の作品にもっともコメントを下さっていて、カクヨムやツイッターというインターネット界隈で内気な僕に絶えず声をかけてくれていた。
 どこか御守りのような存在で、その方がいて下さるから大丈夫だ、と心の支えにしている部分もあったと思い至る。
 昼休みの終わりに感謝と思い至った部分の内容を文章にし、返信しようとするも、「メッセージの送信に失敗しました」と表示されてしまう。
 仕事に戻って、遂に僕のスマホが壊れたかな? と思いつつ、仕事終わりにもう一度、メッセージを送信しようとするも、同様の表示が出てきてしまう。
 ブロックされたのかな? と思ったが、どうもアカウントを削除されたようだ。
 ……、え? 僕、なにか嫌われるようなことしたっけ?
 うーん。
 とはいえDMに、しばらく休むとあるのだから、そうなのだろう。
 しばらく頭を冷やす為に、その方のカクヨムの作品にコメントやレビューをするのは控えようと思う。
 その間に、カクヨムのアカウントも消えてしまったら、その時に考えよう。

 4月20日(月)

 朝、電車に乗る時間を休日のものと勘違いして、一本乗り過ごす。それでも問題のない時間に職場へ到着する。
 仕事は相変わらずあってないようなもので、だからと言って同期や後輩と喋れる訳でもない。宙ぶらりんな状態で永遠とnoteの記事を読む。
 幾つも読んだ後に、自分の書いた記事のタイトルを見ると、なんというか硬い気がした。
「人を愛そうとすることで傷つけてしまう瞬間について。村上春樹の「蛍」とホモソーシャルな社会」
 とか、敬遠されて当然な気がしてくる。
 仕事が終わり、電車に乗ろうとしたところ遅延が発生していて、駅に人が溢れていた。すぐにホームを離れて、近くのコンビニに入った。
 ビールでも飲んで時間を潰そうかと考えたが、これから人が増えていくなら意味はないか、と結論付けてコンビニを出た。
 また駅のホームへ行くと電車が来ていて、できる限り人が少ない車両に乗った。
 noteの短編小説で面白いものがあったので、コメントを書く。
 最寄駅について、近所のスーパーが20時に閉まるようになってしまったので、少し遠いスーパーへ行き買い物をした。
 ツイッターの記事でコロナの影響は2022年まで続く可能性があるといった内容が記載されていた。
 2022年。
 僕は31歳になる年だった。
 それまで、今のような状態と想像してみる。
 具体的な像は浮かばないが、明るい未来ではないだろうということだけは分かった。
 
 4月21日(火)

 休みのため、昼前まで寝ていた。
 変な夢を見た気がする。自分が選ばなかった、もう一つの人生を生きているような夢。
 そこでも僕は悩み、我慢し、人に気を使っていた。
 どんな人生を選んでも、僕が僕であるのは変わりようがないんだなぁと当たり前のことを思う。
 起きて「ゾンビランドサガ」というアニメを見ながら、朝食をとる。

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 職場の後輩が面白いと言っていて、星川リリィというキャラが好きだと言っていた。
 丁度、星川リリィがピックアップされた話で、なるほどと思う。ゾンビがアイドルになることで、「アイドル」という存在を続ける上で都合の良い体になっているという作りは上手い。
 現実の自分として生きるより、架空の「アイドル」として生きることを肯定してしまって良いのか? と考えないでもないけれど、それらを選び生きるのは自由だ。
 朝食の後に部屋の掃除や洗濯などの家事をしてから、毎週水曜日にカクヨムで更新しているエッセイを書いた。
 今回は尾崎世界観と千早茜の共作「犬も食わない」について書こうと決めていたが、具体的に何が書けるのか分かっている訳ではなかった。
 結果、岸政彦の「断片的なものの社会学」と内田樹の「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち」を引用して、他人との生活、具体的には「他人が存在するという不快」ということを引き合いに書いた。
 結論として、「他人が存在するという不快」の前提には「自分が存在するという不快」という話になった。


 エッセイの面白いところは、書き出す時には結論についてまったく考え至っていないことだと思う。
 夜に人と電話をして、発泡酒を飲んだ。
 比較的、充実した休日だったと思う。

 4月22日(水)

 村上春樹が「エルサレム賞」を受賞した時のあいさつで「壁と卵」というものがある。
「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」
 と村上春樹は言っているのだけれど、最近ニュースを見る度にその一文が浮かぶ。
 今の世の中は多くの卵が壁が作り出すシステムの間違いを指摘しているように思える。
 卵の主張は至極真っ当で正しい(ように見える)。
 だからなのか、壁の側は「卵の側がそう言うから、決してそれを認めたり、実行する訳には行かなくなった。常に正しいのは壁の側でなければならないのだから」という方針で進もうとしている(ように見える)。
 そこには「父親は偉い。なぜなら、父親なのだから」に近いロジックが潜んでいるような気がする。
 けれど、当然の話として「偉い父親を目指して、弛まない努力を続けた結果、偉い父親」というものが誕生するのであって、父親になったから偉くなれる訳ではない。
 ここ数日、僕はずっと憂鬱な気持ちを抱えていたのだけれど、おそらくそう言った部分を感じ続けていたからなんだろう、と予想してみる。
 仕事帰りに近くの本屋で今月の文學界を買う。

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 文學界新人賞の発表がされていて三木三奈(みきみな)「アキちゃん」という作品が受賞していた。
 受賞者の方の生まれ年が一九九一年で、同い年だった。
 冒頭を軽く読んだら、テンポが良かった。同世代の方の作品として、少しずつ読んで行こうと思う。

 4月23日(木)

 ツイッターのトレンド欄に「内田樹の研究室」を見つける。
 今回、ツイッターで話題になっているのは「『月刊日本』にロングインタビューが掲載された。「コロナ後の世界」について。」という文章だった。
 読んでいて、昨日の日記と精通する内容の部分があった。
 今の政権が「イデオロギー政権」であると、書いた後に「たとえ有効であることがわかっていても、中国や韓国や台湾の成功例は模倣したくない。野党も次々と対案を出していますが、それも採用しない。それは成功事例や対案の「内容」とは関係がないのです。「誰」が出した案であるかが問題なのです。ふだん敵視し、見下しているものたちのやることは絶対に模倣しない。国民の生命よりも自分のイデオロギーの無謬性方が優先するのです。」とある。
 昨日の日記を書いた時には、この文章を読んでいなかったけれど、それ以前に大量の内田樹本を読んでいた。
 内田樹の思考方法みたいなものが僕の中には根付いているんだろうなぁと思った。
 僕は僕の頭で考えている、というよりは、今まで蓄積した知識を使って考えているのだと分かって、昔「自分の言葉で語れよ」と言われたのを思い出す。
 僕はまだ自分の言葉を持っていないのだろうか?
 持っていないような気もするし、これは僕が獲得した言葉だという気もした。
 何にしても勉強は一生し続けるものだ。
 これからも考えること、読むこと、学ぶことを忘れないようにしたい。
 仕事は相変わらず何もなかった。帰り、少し薄着で出てきてしまった為、寒かった。
 noteの更新はしなかった。
 というよりも出来なかった。連続更新は11日で終わった。
 これからは細々と更新していこうと思う。

 4月24日(金)

 休みだった。
 友人の倉木さとしから小説のプロットについての意見を求められていて、それに関する返信をした。
 他人の作品について、どこまで踏み込んだ話をするべきか、で毎回悩む。僕は基本的に他人の作品に対して良い所を見つけて、そこを褒めるようにしている。
 倉木さとしに関してはその関係を超えて、踏み込んだ話ができる相手ではいるが、書くのは僕ではない。
 彼の戦略や書きたいものがあるのも分かっている。
 難しい。
 どれだけ時間を掛けても「だめなものはだめ」な世界が創作ではある。完璧にだめな状態という訳でもない。
 もしかすると、僕以外の人間は良いと言うかも知れない。
 プロットの状態だから、欠点が目につくだけかも知れない。
 分からない。
 僕は僕が感じたことを言葉にするしかないけれど、人間としても、小説家志望としても未熟であるのは避けられない。

 4月25日(土)

 土日は電車の乗車率が低くて安心する。
 平日の朝は問題ないが、夜は人が多くて辟易とする。
 ゲンロンαというサイトの記事が面白くて、少し夢中になって読む。とくに「死なない身体の殺しかた|徳久倫康」という桜庭一樹を題材に「キャラクター的想像力」と「リアリズムの変容」について書かれているのが好みだった。
 ライトノベル作家に一時期、非常に興味があった僕としては桜庭一樹が抱えていた主題、ライトノベルから一般小説へと転移することでの作品の変化が細かく書かれていて、興味深かったし、なるほどと何度も思った。
 カクヨムの方でしばらくお休みするとおっしゃっていた方が新しいエッセイ?を書かれていて、読みにいった。
 コメントをすると返事があった。そして、僕のエッセイの方にもコメントを下さった。
 何かあったんだろうなぁ、というのは分かるのだけれど、何があったのかは分からなかった。
 ただ、謝られて、僕は何について謝られているのだろう? と思った。もし、僕に粗相があるのなら、むしろこちらが謝るべきだし。
 とのようなことを考えて、コメントの返信にした。
 仕事の帰り際に気になっていた居酒屋のテイクアウト商品を買おうとしたが、すでに売り切れとのことだった。
 土曜日だからなのか、夜の二十時過ぎだからなのか。
 何にしても残念。
 近所のスーパーが二十時に閉店するようになって、まともな買い物が休日しかできなくなってしまった。
 今日も冷蔵庫にあるもので、なんとかする。

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さとくら
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