【小説】西日の中でワルツを踊れ⑨ ぼくは紗雪の服を脱がしてみたかったし、ベッドに押し倒して見上げてくる彼女を真っ直ぐ見つめてみたかった。
「さっき話をした川島疾風が行方不明になったのが二週間前で、かの子ちゃんのお兄さんが携帯を壊し、やくざのあいさつ回りをし始めたのも二週間前でした。そして、なにより」
「かの子ちゃんが、ナツキくんのことを知っていた」
山本の言葉にぼくは頷いた。
「そうです。ぼくは、かの子ちゃんの兄、田宮由紀夫のパシリだったそうです」
「パシリかぁ。まぁ確かにナツキくんは、ぱっと見、中途半端なチンピラって感じだものね」
「ですね」
「普通に考えれば、その田宮くんの仲間内で争いがあって、それに敗れたナツキくんは病院の前に放置された。そーいう話なのかね」
一番有り得そうな話ではある。
かの子の話を聞くと、彼女の実家は隣町だそうだ。
岩田屋町を歩いても知人に出会わなかったのも、ぼくが生活していたのが隣町だったから、と考えれば納得はできる。
が、違和感は残る。
一番大きなものは紗雪だ。
川田元幸という兄を探している紗雪。
彼女いわく、ぼくが川田元幸の場所を知っていて情報元は父親からだと言った。
山本の言う仲間内の争いによってぼくは記憶を失い、病院前に捨てられたのだとしても、そこに川田元幸は絡んでくるのか。
あるいは、まったく関係はなく単純なる偶然の連鎖なのか……。
現在では情報が少なすぎて、判断までは至れない。
「ちなみに、山本さん」
「ん?」
「かの子ちゃんが言っていた、魔法使いのチャンって人に心当たりってあります?」
「中国の方ではポピュラーな名前だからねぇ。ただまぁ、魔法使いと言えば」
「はい」
「三十歳まで性行為をしなかった男を、そー言うよね?」
真面目に聞いて損したと思いつつ、一応は尋ねてみた。
「それが何ですか?」
「いや、だから、そのチャンもそーいうことなんじゃない?」
山本はあくまで真剣な表情を保ったままだった。
ぼくは無視してグラスに残ったウィスキーを口にした。
痺れるようなアルコールを楽しみながら、考えを巡らせてみたが、たいしたものは浮かんでこなかった。
今のぼくにはあまりにも情報が無さすぎる。
尚も下ネタについて語る山本の話を遮って、ぼくは四年前の戦争(実際は抗争と言うらしいが)について何か知らないか尋ねたが、まともな返答はしてくれなかった。お互いのグラスに酒もなくなった頃に、山本がぽつりと言った。
「人にものを尋ねれば答えてくれると思うのは間違いだよ。答えは自分の頭と足で探し出すものだ」
それは確かにその通りかも知れない。
だが、煙まかれたような気がして素直に頷けなかった。
翌朝、目を覚ますと山本は既にベッドにはいなかった。
有は既に起きて朝食をとっていた。
「おはようございます」
ぼくも「おはよう」と返して、朝食を取りに行くついでに顔を洗った。
お膳を持って部屋に戻り自分のベッドに腰掛けた。
その頃に有は手を合わせて空になった食器を重ねて、部屋を出た。
彼の動き一つ一つは丁寧で、昨日のショッキングな出来事の余韻をまったく感じさせない。
大人だ。
ぼくは朝食の食パンやスープを口に運びながら、記憶を失う前の西野ナツキは童貞だったのだろうか? と考えた。
鏡で自分の姿を見て、周囲からの評価をまとめると、ぼくは二十代前半の外見だ。
その為、山本は当たり前みたいにぼくを晩酌に誘う。
酒を飲んでも咽ることはない。
むしろ美味しいと感じる。
つまり、過去のぼくは酒を飲むことに抵抗のない生活をしていたことになる。
二十代前半で酒を飲み、髪を明るく染めて、やくざの息子のパシリをしているなら童貞ではないだろう。
記憶はないが、女性の服を脱がしたことも強く抱きしめたこともあったはずだ。
今のぼくはそれを想像で補う他ない。
童貞に逆戻りだ。
しかも、その相手は紗雪だった。
朱美がからかうように、ぼくを紗雪の彼氏だと言った。
彼氏彼女の関係であるなら、体の関係だって当然あるだろう。
その想像は実に幸せなものだった。
ぼくは紗雪の服を脱がしてみたかったし、ベッドに押し倒して見上げてくる彼女を真っ直ぐ見つめてみたかった。
「昨日はすみませんでした」
ふと、顔をあげると有がぼくに頭を下げていた。
「なにが?」
言って、ぼくは柔らかい笑みを作った。
有が伺うようにぼくを見た。
「取り乱してしまって。驚かせてしまったんじゃないかな、と思って」
「そんなことないよ。というよりも、誰だって驚くよ。突然、異性の見たことのない場所に手をあてがわれたら」
ぼくは言いつつ、座っていたベッドの横をずらして、空いたスペースをぽんぽんっと叩いた。
有は素直にぼくの隣に腰を下ろした。
「本当に、びっくりしちゃいました。けど、それは女性の身体にあるもので本来は驚くものじゃない。見たことも触ったこともありませんでしたけど、それは僕の見えないところにずっとあって。驚いても、恐れちゃいけないものなんだって思いました」
一晩で彼はちゃんと自分の戸惑いを客観的に見つめている。
有は賢い。
「昨日、かの子ちゃんに無理矢理なことをされた時、有くんは恐かったの?」
だから、あえて彼が困るようなことを聞いてみようと思った。
「恐かったんだと思います。けど、それは田宮さんの行動そのもので、彼女の、その……性器にじゃないんだと、朝起きた時に考えました」
「うん」
「あの時の田宮さんの行動は、なんの脈略もなく人を殴るとか、背中を突然押すとか、そういう一方的な暴力に近いものがあって、僕はそれに抗えなかった。されるがままだった。何だか、それが情けないとも思います」
他人に与えられた突然の暴力。
その感触をぼくは知らないはずだった。
けれど、傷らだけの身体を思えば、記憶を失う前のぼくは知っているのだろう。
「ねぇ? 有くん。じゃあ、ぼくみたいに記憶を失ってみたい?」
その情けない記憶ごと全部、消せるとしたら消したいと彼は言うだろうか。
有は少し考え込んだ後に、ぼくの目を見た。
「失いたくないです。情けない記憶以上に、もっと大切な記憶が僕の中にはありますから」
当然の返答だった。
そして、同時に思う。
過去の西野ナツキは意図して記憶喪失になった訳ではないだろうけれど、彼も有と同じ返答をするのだろうか。
するのだとしたら、今のぼくは記憶を取り戻した時、どうなってしまうんだろう。