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New熟語譚20 内酸(ないさん)
漢和辞典を目をつぶって指さし、そこにあった漢字で新たな熟語を作ります。これは、その熟語を元にした、短いおはなしです。
内酸
一人旅の途中で、私は突然、滝を見たくなった。どこの都道府県にも、滝の一つや二つあるだろう。そう思って、すぐに調べた。やっぱりあった。ここから、一番近い滝にしよう。滝なら、どこでも良いんだから。
観光客は、見たところいなかった。だって、シーズンじゃないものな。少し肌寒い。山道を下って行くと、手すりで囲われたスペースの先に、大きな滝が見えた。私はそこに陣取った。ドドドドと大きな音がして、いやがおうにも、その迫力に「おぉ」と、言ってしまう自分がいた。距離は大分あるのに、水のしぶきがこちらまで少しかかって来る。それがまた、気持ちよい。
「観光ですか」
いつの間にか、横に人がいたのでびっくりした。いかにも山にいそうな、帽子をかぶったおじいさんだ。
「あ、はい」
観光で良いんだよな。と思いながら、私は返事をした。
「あなたの心のペーハーは?」
「は?」
急に今まで模範的だったおじいさんが突拍子もない質問をしてきたので、びっくりしてしまった。あぶないあぶない。もしかしたら、私の聞き違いかもしれない。もう一回、ちゃんと聞いてみよう。
「あなたの、心のpHは?」
やっぱり、同じだ。と、私は思った。
「あの、どういうことですか?」
「すっぱいのか、苦いのか、どっちなのさ?」
にこにこしながら、おじいさんは、どんどんと距離を詰めてくる。私はたじろいだ。
「心にpHなんてないですよ」
「そんなことないよ。じゃあ、今から測ってみるかね」
「いえ、いいです」
「はい、これをあげるよ」
おじいさんは、どこからいつ取り出したのかわからない薄っぺらい紙を、私に差し出した。
「これは、なんですか」
「あぶら取り紙だよ」
「あ、ありがとうございます」
この鼻についた水しぶきを、鼻の脂と勘違いされたのかもしれない。私はそう思い、さっとそのあぶら取り紙で鼻を拭いた。その瞬間、その紙を、おじいさんはばっと掴んで奪い取っていった。
「え?」
「これはこれは……」
おじいさんは熱心にその紙を見て、言った。
「なんなんですか!?人の鼻の脂なんて見て」
「あぁ、ごめんなさい。これは、あなたの心のペーハーを見ていたのですよ。あなたの心が、いっぱいになって、鼻から染み出しているのです。あなた、マイナスイオンを発しているかのように表面上は穏やかだけど、心の中はものすごい酸性ね」
「何言ってるんですか。それに今鼻についていたのは、滝から飛んで来た水しぶきですよ。もしそれが酸性なら、この滝の水が酸性なんだ」
「いいえ、ここの水はpH7。中性です」
「そんなら、鼻に付いていた汗かなんかが反応したんでしょう」
「いいえ。汗は弱酸性かアルカリ性。けれどあなたの心は、強い酸性を示している」
「どういうことなの」
「お辛かったでしょう」
急におじいさんは細い目で私を見てきた。
「そんな、憐れんでもらうようなこと、ありませんから」
「あ、今目そらしたー」
「そらしてません」
「じゃああなた、こんな時期に、こんな滝を見に来ようと思ったのはなぜ?」
「な、なんとなくですよ」
痛い所をつかれた様な気がした。
「もう、そんなに我慢しなくてもいいんですよ。」
おじいさんは畳み掛ける。
「はい」
何に対して「はい」と言っているのかわからなかったが、思わずそう言ってしまった。
「なんですか?これ」
いつのまにか、また薄っぺらい紙を渡されている。
「ちり紙だよ」
私はその紙で、思いっきり鼻をかんだ。鼻の通りが良くなって、滝の廻りの緑の匂いが、もあっと一斉に入って来た。
「はぁ〜、癒やされますね」
そう言って横を向くと、おじいさんはもういなくなっていた。
今測ったら、中性になってるかもな。と、私は思った。
★☆☆★☆★☆☆☆★★☆★★★☆☆★
内酸(ないさん)・・・表面上はなんともなくても、自分が気づかない内に心が荒れていること。
※注 このことばは造語です。実際はこんなことばありませんので、ご注意ください。