映画『残酷で異常』【考察】※ネタバレ有
2014年に公開されたサスペンス映画『残酷で異常』。題名からは想像しにくいですが、ミステリー要素もSF要素もある面白い作品でした。
今回はそんな本作を少しだけ考察してみます。
【考察①】自分が「残酷で異常」だと気付けない
自分が殺人を犯したと思っても、自分のせいで事件が起きたとしても。人は自分が「残酷で異常」だと認識することはなかなかできません。そう認識出来ても、自分の嫉妬や執着や行動を変えることは難しいです。
本作に登場する「殺人者」たちもそう。どんなに後悔していても、冷静に分析しても、感情的に反省していても、必ず相手を殺してしまいます。何日も何か月も何年もここにいても、結果は毎日同じ。最後には相手を殺して、この施設に戻ってきます。
それは、この施設で反省した記憶がないからです。しかし、記憶があったら本当に殺さないのでしょうか。
【考察②】記憶があれば繰り返さないのか?
本作の主人公エドガーを見てみましょう。彼は自分に自信がなく、「自分のものになった」妻に執着しています。相手の行動を制限したり、自由を与えず自分の支配下においておこうとしたり……相手が自分から離れることを異常に恐れて、「残酷で異常」な行動をしていました。
こんな人物はフィクションの世界に限らず、現実世界にも山ほどいます。彼ら・彼女らにそれは「残酷で異常だ」と言ったところで、彼らの行動は抑えられるでしょうか? 「残酷で異常じゃない」と否定するかもしれません。
「残酷で異常だ」と自覚できても、こうする以外の行動はとれないかもしれません。不安だし、大好きだから、こうする以外どうしたら良いのか分からない。自分を止められない。
これを読んでいるあなたも、こんなことを書いている私自身も実はエドガーのような行動を取っているのかも。
記憶がある現実世界ですら、自分の行動を変えることは容易くありません。あの施設にいるキャラクターたちに、記憶があったところで簡単に行動を変えられたでしょうか。エドガーが「自分は殺されたんだ」といつまでたっても被害者面していたのも印象的です。
それに、殺した日の自分の行動だけでなく「相手の行動」も変えられないのも印象的です。自分の行動が変えられないのは先述した通り。
さらに「相手の行動」も変えられない。それも当然のことです。この施設でも現実世界でも、意図的に誰かの行動を変えることは容易ではありません。相手に問題があろうとなかろうと、相手自身が変えたいと思わない限り行動は変わりません。
変えられるのは自分の行動だけ。ここでは自分の行動を変えることも叶わないようですが……。ではどうやったら変えられるのでしょうか?
【考察③】自分の行動を変えるのに必要なこと
自分の行動は変えられない。結局のところ、自分を変えるために必要なのは「他人」なのかもしれません。自分でこうしようと思っていても、実際その時になると決心を忘れてしまう。そんな時に「違う」「やめろ」「冷静になれ」「この場から離れろ」と、私のために行動してくれる「他人」。この「他人」が必要です。
「他人」に助けてもらうためには、「助けてくれ」「どうにかしたいんだ」と「他人」に助けを求める行動が必要です。変わりたいという気持ちと、第三者である「他人」に助けを求める行動。エドガーに限らず、人間には「他人」からの助けが必要、ということなのかもしれません。
ところで……。自分を変えるためには、そもそも自分を客観的に観ることが必要になります。当事者のままだと、自分の問題に気付けないからです。しかし、自分を客観的に観られるドアは天井にありました。
自分の周りで何が起きているのか分析する手段は、天井のドアから外へ出ること。しかし、そのためには、誰かの助けが必要。
何とも意地悪ですが、現実世界でもそれは同じ。こういう問題があるが、これは自分が悪いのか? 周りが悪いのか? 第三者の「他人」に聞かないと答えが出ません。
人と人は助け合わなくては変われない、というメッセージがここでも見られて興味深いです。
【考察④】ここはそういう場所だ
「ここはそういう場所だ」と言って、施設に閉じ込められている登場人物たちは受け入れています。毎日過去の罪を繰り返し、発表して振り返り、受け入れる……。しかしその先には何もありません。
受け入れたらこの施設から出られるのでしょうか。そんな人が過去にいた、なんて誰も言っていません。そんな人物がいたら、もっとみんな積極的に行動するのではないでしょうか。
実際は、みんな無気力です。この先ずっとこの繰り返しだ、と諦めているように見えます。
自分で自分を殺した、自殺した人もいることから、ここは「地獄」だと考えられます。キリスト教等多くの宗教では「自殺」はタブーになっています。そこから、自殺をすると地獄へ行くという考えも多いようです。
ここで繰り返し反省していたって、地獄から抜け出すことはできません。罪を何度も見せて苦しませ、命令する、この施設やモニターの人物たちは悪魔なのかも……。施設が、彼らに罪を話させることも、どんな気持ちだったのか発表させるのも、カウンセリングではなく、彼ら悪魔が楽しむため……なんて。
どんな気持ちで殺したのかを聞いたモニターの女性が笑顔なのにもゾッとします。
だからこそ、エドガーの最後の行動には意味があります。相手を殺さず、相手にも殺されず、自分に殺されることを選んだエドガー。最後のエドガーの表情は穏やかです。
妻や友人を地獄から救ったように、これからも地獄へ落ちてきた「他人」を救い続けるのかもしれません。誰かの為に行動して自分を殺し続けられるエドガーは、この地獄の救世主なのかも。
【考察⑤】地獄か? 煉獄か?
先述していた通り、この場所はとても宗教的です。
人を殺した者、自分を殺した者がやって来る。
エドガーの腕には「UXOR(妻)」の文字が彫られていました。英語ではなくわざわざラテン語で。
宗教的に考えると……ここは天国へ行く最後のチャンスの場所「煉獄」だとも言えるかもしれません。
本当に自分の行為を後悔して、この罪悪感を「安心感」に変えずどうにかしたいと考え続ける。そうして罪を償い「準備」が出来たら、この煉獄から天国へ行けるのかも。
「他人」を一緒に連れていけるシステムがあったり、誰かと協力して天井のドアを開けられたりするのも興味深いです。
それに、施設内のメンバーが一定なのも面白い点の1つ。この施設のイスは人数分しかありません。1人が2つイスを使っていたら、1人は床に座るしかありません。
もし、本当に殺人者がここに来るなら、この程度の人数じゃおさまりません。新入りなんて毎日もっともっとやって来ることでしょう。しかし、新入りは多くないようです。
もしかすると、これまでもエドガーのように誰かを救って・または過去を変えて出ていった人がいたのかもしれません。救えば、救われれば天国に行ける。ここはそんなチャンスを与えられている「煉獄」だと言えそうです。
ただし、チャンスの神様は前髪しかないのだから、準備が出来ていなくても飛び込まなくては……。
【考察⑥】まだ準備できてない
「まだ準備できてない」そう言われてエドガーの行動は周りから止められました。では、いつなら準備ができたと言えるのでしょうか。準備ができている時なんかないのかもしれません。どんなに勉強していたってテスト前は準備不足を感じるし、どんなに準備していたって報告書には何か足りていない気がします。でも、とにかくその時が来たら・チャンスが来たら飛び込むしかない。そういうものなのかもしれません。
準備が出来ていなくても、自分のどこが問題なのか分からなくても、行動して助けを求められるエドガーは立派です。
まとめ
問題を受け入れている、と言うと聞こえは良いです。しかし、重要なのは受け入れてからの行動。あの施設に閉じ込められた人々のように受け入れてその場に居続けるのは、「自分はこうだから」と開き直っているのと同じではないでしょうか。
私たちはみんな「エドガー」です。エドガーと同じように問題を抱えている。自分では正しく認識できていないけれど、明らかな欠点があって不和があって……。でも、エドガーのように問題を解決できる力も持っている。
本作はそんな、希望のある物語だと思います。