映画『ボーはおそれている』【考察】現実と妄想の境目 ※ネタバレ有
2023年に公開された映画『ボーはおそれている』。日本でも2024年についに公開されました。映画『ヘレディタリー/継承』や『ミッドサマー』のアリ・アスター監督の新作だ! と楽しみにしていた方も多いのではないでしょうか。
そんな待望の新作である本作……鑑賞後かなり疲れませんでしたか? 観客のパワーを吸い取る恐ろしいホラー作品でした。
しばらく考えるのも辛かったのですが、どうしても考えるのを止められなかったので考察としてまとめていきます。
お付き合いいただけますと幸いです。
※映画『ボーはおそれている』のネタバレ記事です
※映画『トゥルーマン・ショー』のネタバレがあります
【考察①】どこからどこまでが現実
私は「冒頭の精神科医との会話」・「母親との関係」・「帰らなければならない」部分が現実で、他の部分はすべて妄想・悪夢だと思っています。
アパートの外の治安の悪さや旅路、母親の葬式、死の偽装なんかもすべて現実ではない。そう考えるのが一番「現実的」ではないでしょうか。
そもそもこの「旅路」自体が胡散臭すぎるのです。こちらを見る人々、見知らぬ人がするボーの事情を知っているかのような発言……特に気になるのが「ガラス」。
普通ガラスを踏んだら、もうそこから一歩も動けないくらいの激痛が走ります。頭にガラスが刺さっていて、痛みよりも血がいっぱい出てくることが気になる、ということがあり得るのでしょうか。精神的な痛みはリアルに描かれているのに対して、物理的な痛みに関しては鈍感に描かれているのです。
まるで「夢」の中のよう。
リアルさがありません。
だから、本作のほとんどは夢・妄想であると考えられます。
そう考えると、興味深い部分も出てきて……。
ボー視点で描かれている世界です。だから、実際の母親がどうなのか、実際の父親はどうなのか、全く分かりません。でもボーの精神的な痛みはきっと本物です。ボーの視点から母親を見てみましょう。
【考察②】母子家庭の狂気ではなく、「母」という存在の狂気
まず、本作は「母子家庭の母親の支配」を描いているわけではないことにご注意ください。
母子家庭の閉鎖的な狂気を描いているようにもみえるかもしれません。しかし、アリ・アスター監督はそういった意図はしていないでしょう。
本作のパンフレットで、アリ・アスター監督は『非公式な三部作』と語っています。これは、アリ・アスター監督の映画『ヘレディタリー/継承』、『ミッドサマー』、そして本作『ボーはおそれている』のことです。3作に共通しているのは、家族の中にある「母の支配」と「継承」。
まだ見ていない方もいるかもしれませんので、具体的な話は避けますが……。
『ヘレディタリー/継承』は言わずもがなでしょう。
『ミッドサマー』も、「集団の中の母」という存在「継承」という部分が一致します。
そして本作も……。
これら三部作のテーマは共通していますが、家族の形はバラバラです。『ヘレディタリー/継承』では両親そろっていますし、親族もいます。『ミッドサマー』の「家族」は非現実的なほど形にとらわれていません。そして、本作は母子家庭。
それぞれ全く違う家族の形の中で、全く同じ「母親の狂気」を描いているのが特徴です。どの作品の「母」も同じ叫び方をしているのにもご注目ください。
アリ・アスター監督は母子家庭の狂気を描いているのではなく、どんな場所にでも存在する「母親の支配」を描いているのです。
もしかしてアリ・アスター監督は母親のこと好きじゃないのか……? なんて思ってしまいそうな3作のテーマですが、母親や家族との関係が良好だからこそ「もし親がこうだったら、自分はこう成長できなかったのでは」と分析できたのかもしれませんね。
母親は偉大で、愛を与え、学ばせ、正しさを子どもに継承させられる存在。
だからこそ、子を支配し、呪い、歪みをも継承できる存在でもある。
ということなのかもしれません。
【考察③】精神科医との会話は現実か?
精神科医との会話自体は本当にあったのでしょう。しかし、カウンセリング中の「母からの電話」は現実でしょうか? もしかすると「帰らなければならない」「母に常に見張られている」という恐怖からきた妄想かもしれません。
電話に出なかったり、「すみません電話に出ても良いですか?」等と聞かなかったりするのが引っ掛かりました。もしかすると、「母から監視されていて電話がかかってくる」という『妄想』に支配されているのかもしれません。精神科医に「電話はかかってきてないよ」「スマホをテーブルの上においててごらん」等、これまでに注意されていたのかも。だからボーは気にする素振りはしても、出ることはしなかった、と考えられます。そして、精神科医は「ボーがまた電話(母)を気にしている」と察したのかも。
精神科医はボーに「母親に死んでほしいのか」を聞きます。しかし、その質問自体、本当にしていたのか分かりません。本当に聞いたかもしれませんし、ボーの妄想かも……。
どちらにせよ、この質問をきっかけにボーはこの「悪夢」に悩まされるようになります。
【考察④】現実と妄想の比率
冒頭の段階では現実と妄想の比率は大体5:5くらいでしょうか。
精神科医との会話は本当でしょうし、帰り道の買い物も現実でしょう。飛び降りも本当ではないでしょうか。ただ、「飛び降りさせようとしてんだ」とニヤニヤ笑う男性は現実かどうか微妙ですが。
その後、帰宅して「薬」を飲んで、寝て……。もしかすると薬があっていなかったのかもしれません。現実と妄想の比率がどんどん逆転していきます。町の人々全員が自分のことを見ている、加害しようとしている、狙っている。完全に被害妄想です。しかし、もうボーは「これは妄想かも」なんて考える余裕はなくなっています。
「母親に死んでほしいと思っているかも」と「飛び降りするかもしれない事件」の両方の出来事が重なったこと、そして「帰省」のストレス、「明日遅刻できない」ストレス、「合わない薬」……全ての相乗効果で最悪な夢と妄想に迷いこんだのではないでしょうか。
【考察⑤】ボーは入院している?
個人的には、ボーは途中から精神病院に入ったのでは? と考えています。パニックになって素っ裸で飛び出して、車に引かれて……。その部分は肉体的な痛みがリアルなのです。だから、そこは現実で、その後病院に入ったのかもしれません。
ボーは個人宅に泊めてもらっていると思っていますが、同じように精神的に病んでいる人もいるあの場所は、実際はただの病棟なのかも。だから、ボーが「帰りたい」と言っても先生はのらりくらりと延期する……と、考えると納得いきます。
もしかすると、あの家の奥さんも、子どもを亡くして精神的に病んでしまった女性だったのかもしれませんね。
【考察⑥】映画『オズの魔法使』
「【考察④】現実と妄想の比率」で「最悪な夢と妄想に迷い込んだ」と書きました。そう考えると、ボーはまるで映画『オズの魔法使』のドロシーのように思えます。
ボーが森の中で観た演劇の舞台装置も『オズの魔法使』を連想させるものでした。そこでボーが「オノ」を持ってたたずんでいたのも、まるで心のない「ブリキ男」のよう。そして、恐れているその姿はまるで臆病な「ライオン」!
ボーは『オズの魔法使』のドロシーであり、ブリキ男であり、ライオンでもあったのです。
幸か不幸か、ボーは頭のない「案山子」ではありません。死体を見て「母親じゃない」とすぐに見抜いたのも、ボーの頭の良さを表しています。ただ、頭が良いから「母親の正しくなさ」にも気付いてしまっているのです。子どもの頃の母親への反抗も、彼の頭の良さから来ていたのかもしれません。しかし、その反抗心は屋根裏へ封印されてしまいます……。
映画『ミッドサマー』でも『オズの魔法使』のオマージュがありました。『ミッドサマー』では、主人公たちが黄色い道を辿ってあの結末に向かうのですが、本作ではどうなったでしょうか。
黄色い道を辿った演劇の中のボー、その外にいるボーは……。
【考察⑦】父親の死
父親は腹上死したと母親は言っています。本当にそうなのでしょうか。
もしかすると、父親は死んだのではなく、浮気して出ていったのでは、と私は考えています。でなければ、母親はわざわざ息子に「腹上死した」なんて言わないだろう、と思うのです。
「腹上死した」とわざわざ言う。それは「愛されていなかったと思われたくない」「死んだと思っていてほしい」「男は性欲の塊だ」「だから男は酷いことをする存在だ」という気持ちが含まれているのではないでしょうか。その母親の悲しみを、頭の良いボーは察していたのかも。
ボーが性行為に抵抗があり、父親という存在を「生殖器そのもの」と連想しているのは、母親からの悲しみと狂気をそう「継承」したからではないでしょうか。
【考察⑧】映画『トゥルーマン・ショー』
本作は映画『トゥルーマン・ショー』をオマージュしています。
『トゥルーマン・ショー』では、主人公トゥルーマンが大きなスタジオの中で24時間365日観察され、放送されていました。彼の誕生、成長、結婚、全てを「ショー」として見世物にしているのです。
この『トゥルーマン・ショー』を観ていて、「全部トゥルーマンの妄想だったらどうしよう」と思ったことはないでしょうか。観ている私たちは、外でトゥルーマンを観ている視聴者や番組スタッフの存在を知っています。しかし、トゥルーマンにはそんな「確信」はないはずです。それでも「何かおかしい」という気持ちから、どんどん行動して……。「初恋の女性が待っている」「何かがここから出さないようにしている」その感情は、現実世界ではなかなか危険です。
しかし、本編は明るい終わり方をします。実際にプロデューサーがすべてを支配していました。その愛情の仕方はまさに歪んでいます。トゥルーマンはそれをものともせずに、「毒親」から卒業し、鳥かごから旅立っていく……。とても前向きなコメディです。
本作もそんな設定でした。しかし、結末は『トゥルーマン・ショー』とは真逆。
本作の冒頭に流れた製作会社のロゴにご注目ください。その中に「mw」というマークも映し出されました。あれは「モナ・ワッサーマン」ボーの母親の名前です。本作は全て母親の提供、母親の支配、コントロールされている……ボーは支配されている、という描写にゾクッとします。
ボーは常に「監視されている」と信じています。みんな自分を観ているし、カメラに見られているし、テレビで放送されている。そんな親の支配から逃れようとしました。
ボートで脱出を試みるのも、『トゥルーマン・ショー』と全く同じです。
トゥルーマンは空から聞こえる「親」からの声に対して皮肉で答えて出ていく。まさに成長の物語です。
一方、ボーは支配の恐怖から逃れられていません。自分では反論できず弁護人頼みです。声の小さい小さい弁護人。その弁護人もいなくなってしまいます。そうなったら自分で反論するしかありませんが……。
ボーはボートから降りられず、諦めてその場で「死」を待ちます。立ち向かい、自分の足で船から降りたトゥルーマンとは真逆です。
フィクションでは、呪いを捨て、継承もせず親から卒業し、成長することができます。
しかし、現実はそう甘くはありません。分かってはいても親との縁が切れず、呪いも捨てられない。成長することは難しいのです。
【考察⑨】この映画は何だったのか
上映時間3時間、体感3時間、それ以上でもそれ以下でもない3時間の「悪夢」。
観ていて「ああ……早く終わってほしい、まだ終わらない。この先何が起きるのか分からないのも、希望がないであろうことが予想できるのも辛い。早く終わらないかな」と感じませんでしたか?
ボーはきっと、人生がずっとこの調子なのです。この混沌と狂気と終わらない悪夢を見続けています。
本作は、ボーのこの悪夢を、リアルに体感する映画だったのではないでしょうか。
私たちは上映時間が終わっていつもの自分の生活に戻れますが、水に沈んで目覚めたであろうボーは……。
本編で何度もボーは気を失いました。そして、目覚めるたびに新たな舞台で悪夢に苦しみます。私たちが映画館を出た後も、ボーはまた別の場所で目覚めて混沌の悪夢を見続けているのかもしれません。
まとめ
本作は、家族の「母親という存在」と「継承」その恐怖を、本当にリアルに描いたホラーです。
ボーのおそれは私たちと無関係ではありません。自分の中にも親からの影響は少なからず存在し、継承しています。
それに抗えないこと、おそれてしまうこと……そんな気持ちをボーは分かってくれるでしょう。