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嫌なのに嫌だって言えなかったあなたへ

人生を自分らしく生きる黄金ルールは「自分の感覚を信じて動く」ということです。

でも、私をはじめ、わりと多くの人が、最初、自分の感覚を信じていいのか、迷います。

とりわけ自己肯定感が高くない人は、そもそも自分に価値があると思えていないから、自分の感じていることにも価値があると思えていない…だから、自分は嫌だと感じていても、みんながいいと言っていると、嫌だと感じている私がおかしいのだ、という思考回路になりがちなのですね。

この時、心に100回くらい唱えてほしいのは、「みんなと違っていい」ということ。

実際、違って当たり前なのです。

だって、あなたと同じ経験をそっくりそのまま体験してきた人は他にいないから。

その上、祖先から受け継いだものもそれぞれ少しずつ異なるとなれば、むしろ同じことを感じることの方が奇跡なんです。

もう一つ、唱えてほしいのは、この世界には間違いはない、ということ。

それは間違いだ、というのは、ある一定の物差しで測った時には確かに発生します。

でも、違う物差しで測ったら、さっきは間違いだったことがあっという間に正しいことに変わります。

法律は物差しの一つで、そのコミュニティーで心地よく暮らすために一定数の皆が同意を求められる(同意できないのであれば変えことができる)もの。でも、私たちの日常において、間違いだ、おかしい、とジャッジされるのは、ほとんどの場合、同意した覚えはない常識という物差し。しかも、常識は法律のように明文化されておらず、同じ「常識」という言葉を使っても、尺度は人によって違うから、正しさやおかしさは追求しようがありません。

だから、「私は、私でいいのだ」と常に自分に声をかけてあげてほしい。

そして、自分の感覚が周囲と違って揺らぐ時は、周りに一人でいいから、「それでいいんだよ」って言ってくれる友達を探してほしい。


やがて、自分の感覚を受け入れられるようになると、次の迷いが生じてきます。

嫌な感覚には二種類あるのです。

一つは、ここまで述べてきたような、本能的な嫌悪感。

もう一つは、自分のこれまでの慣れ親しんだ領域を出る、つまりコンフォートゾーンを抜けることになることへの恐れ。

この二つは、一度わかってしまえば、今、自分が感じているのがどちらかなのかは簡単にわかるのですが、過去の自分を振り返ると、自分への肯定感が低い時には、それが難しかったな、と感じます。

自分が感じている嫌な感覚は間違ってもいなければおかしくもない、ということはもう受け入れられるけれど、嫌だと感じているのは、自分を制限する何かしらの信じ込みのせいで、今こそ頑張ってその信念を手放す時なのかどうかがわからない…。

今の私が過去の私に伝えられるとしたら、その嫌な感じがすることをもし頑張ってみたらどう感じるかを想像してみよう、ということです。

頑張って行動したら、「嫌だったけど、頑張って動いてよくやったね!」というような達成感を感じられそうであれば、今感じている嫌な感じはコンフォートゾーンを抜ける怖さである可能性が高いです。

一方で、頑張って行動した後を想像しても、嫌な気持ちが続くだけで、スッキリしたと感じられそうにないし、よくやったと自分を誉められそうにもないという場合は、本能的な嫌悪感である可能性が高いと言えます。



ただ、その見極めがうまくできないことを責めないでほしいな、とも思います。

人間って、その性質からして、基本、いつも、できていないところ、足りていないところを探しているんです。

何にも考えていないと、大体、できていないところ、足りていないことに目が向いてしまうのに加えて、あえて、自分の意識まで「できていなかった」「まだ足りてない」って追い討ちをかけないでほしい。

むしろ、自然にしているとつい怠りがちな方、つまり「ここはできた」「ここは満足」という、できたことを意識してあげる方がバランスが取れると考えていいくらいだと思っています。


最後に一つ付け加えるとしたら、嫌な感覚を感じ取るのはいいのだけど、できれば心地よい感覚を感じ取る方にアンテナを立てておくほうが幸せを感じやすいということかな。

嫌なことから身を守る、というより、自分に心地よいことに囲まれる、という意識。すると、これまでは攻撃されたることが多いように感じていた世界が、実は守ってくれていた、というふうに見え方が変わってくると思います。


Photo by Izzie Renee on Unsplash

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