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穴があったら入りたいがそんな都合よく穴はない。

学校の勉強はほとんどが嫌いだったが、とりわけ嫌いだったのは歴史だ。

特に世界史はチンプンカンプン。

それでも生きていくのになんら支障はないと思ってこの歳まで来た。

しかし、頭のよい人たちはこぞっていうのである。

「歴史を学べ。歴史には今、そしてこれからの人類社会をどうしていけばいいかのヒントが詰まっている」

それでも自分の直感とやらがなんとかしてくれると思ってきたわたしは彼らのアドバイスを無視してきた。

しかし、動作学を学んでわかったのは、直感もまたこれまで自分がインプットしてきたことがベースになるってことだ。

つまり、インプットは豊かであるに越したことがないのだ。

(直感と似ているものに霊感があるけど、話し出すとややこしいのでここでは控える)

最近になって自分がこれまでの人生でしてきたインプットが偏っていたことに気づいたわたしは、それまで不必要だと一蹴してきた一般教養と呼ばれるものをちゃんと身につけたいという気持ちになり、まずは世界の歴史の基本的な流れくらいは知っておこうと心して、この一冊を読んでみることにした。

まだ第1章のヨーロッパの歴史を読み終えて、第2章の中東の歴史に入ったばかりの段階なので、この文章は本の感想ではない。

ただ、それでもわずか2章にして気がついたことはあった。

この本では、遠い昔の遠い国の出来事に、人の感情や思惑といったものを感じられるので、読み進めるのが面白いのだ。

思うに、わたしがこれまで歴史を苦手としてきたのは、そこに”人”を感じられていなかったからなのだ。

逆に、歴史の中では日本史の戦国時代だけ苦手意識が少なかったのは、大河ドラマやなんかでその時代の“人”をリアルに感じる機会が多かったからじゃないか。

ものすごく遠い国でも、旅をしたことがあったり、その国出身の友人ができたりすると、急に身近になって、興味が湧く。

それと同じことが、歴史の話にも言えるってことだ。


学ぶというのはただ知識を得ることではなく、知識を体験して納得するところまでだと定義すると、本来は経験までが含まれるものなんだろう。ただ、歴史にかんしては体験はできないので、歴史上の人物なり出来事なりにどのくらい共感できるかが鍵になりそうだ。

いずれにしても、情報として知識を得ることと、その知識を経験したと実感できるほどの体感覚を得て学ぶことは、似ているようで別物で、本当の意味での自分の血肉になる学びにするには知識と経験、両方が必要なんだろうね。

と考えていくと、世界史をはじめ、学問の知識などほとんどない自分が、それらの知識を全部知ることは難しいし、それらの知識を全部経験することは不可能に近い…なのに、無知であることを知らずに知ったような文章を書いてきた自分が恥ずかしい…。

穴があったら入りたいが、穴などそんな都合よくあったりしないのだ。

仕方ない、恥をさらして生きるしか。

最近そんなことばっかり書いてる(笑)。

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