自分史上ここ10年最大の変化が起こるかも・前編
今年の3月にマインドフルネス・ストレス低減法と、マインドフルネス・セルフコンパッションの講座に参加した。
どちらの講座の、どんなテーマの回だったかはすっかり忘れてしまったのだが、自分のリアクションの、その奥にある感情、さらにその感情を引き起こしている信念を見つけるというようなワークがあった(自己流の解釈なので、用語の使い方はマインドフルネス的に正しくないかもしれないことはご容赦ください)。
グループワークなので、あまり重たい内容ではなく、日常でちょっと不快というレベルの内容をワークするのがいいとアドバイスされたので、私は、うちの犬たちが吠えた時や、興奮して言うことを聞かなくなった時に、ものすごく苛立つというか、頭に血が上ったようになってしまうことについてワークすることにした。
この場合、イライラする、頭に血が上ったようになってしまう、というのがリアクションである。
そのリアクションの裏にはどんな感情があるか?
ファシリテーターの導きと共に自分を内観して感情を探っていくのだが、真っ先に思い浮かんだのは「ご近所さんに悪く思われるのが怖いのかな? ちゃんとしつけていないと思われたくないのかな?」というようなことだった。
何となくそんな気はする、けど、ものすごくバチッとハマった感じはしなかった。
ワークはそのまんま、次は体でその感情を感じてみる、というプロセスに進んだ。
その時、全身がキーンとこわばって心拍が上がるような感覚があった。
その感覚を体感した時、私の中で何かがつながってバチッとハマった。
そして、気づいた。
私は「私が(一人で)何とかしなくちゃいけない!」と思っていたんだ、と。
犬が吠えた時も、咄嗟に「自分が止めなくちゃ!」「私が何とかしなくちゃ!」と思ってしまい、けど、自分だけではどうしようもないこともわかっているので、苛立ったり、カーっとなってしまうのだ、と。
そこから派生して、「私が何とかしなくちゃいけない!」という隠れた信念が影響している出来事は犬についてだけではないということにも気がついた。
私は予定外のことが急に発生したり、誰かに思いがけない何かを指摘されたりすると、すぐに圧倒されてフリーズしてしまう癖があったのだが、それは「私が何とかしなくちゃいけない」と思い込んでいたからではないか、と。
それ以来、ちょっと圧倒された時はまず深呼吸をして、「私が一人でどうにかしなくちゃいけないわけじゃない」と自分に言い聞かすことができるようになり、ずいぶんと楽になった。
犬に関していえば、もううるさく吠えていても、それに対してイライラすることは皆無といっていいくらいになっている。
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もともと謎の生きづらさと共に生きてきた人生前半だったので、心理学系やスピリチュアル系の本などは多読しており、人間のリアクションの裏には隠された感情(主にきちんと消化できなかったもの)があるということは理解していた。
隠された感情を掘り当てた時、それまで悩んでいたことはオセロを全部ひっくりかえすくらいの勢いで悩みでなくなるということも多々経験してきたので、私は自分を内観することが嫌いでない、というか、むしろ大好きで、何かあると割と熱心にその奥にある感情とやらを探ることをしてきた。
ただ、前述のマインドフルネスのワークを体験したことで、自分一人で内観してリーチできるところよりもっと深いところというのがあって、そこまで辿り着くことが大事なんだなと思うようになった。
「ご近所さんに悪く思われるのが嫌だ」と「一人で何とかしないといけない」というのは、一見どっちでもいい気もしちゃうのだけど、「一人で何とかしないといけない恐怖」がある自分に、「他人に何と思われても気にしなくていいよ」などという声がけをしても、どこかピント外れで、声がけの効果は弱いと言わざるを得ない。
ピント外れな声がけというのは、たとえば本当は変な体の使い方をしていることが要因で膝が痛いのに、この痛みは運動不足のせいかもと思って一所懸命運動するみたいなことなのだ。
よって、自分を癒すにしても、変化を起こすにしても、問題のポイントはどこにあるのか、かなりピンポイントに絞り込むことはすごく重要なのだ。
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実は最近、というか昨日、件のワークショップと似たような深い気づきがあって、長年の謎が解けたような軽やかな気持ちでこれを書いている。
私は、この先、自分の本当にやっていきたいことをやるためには、自己開示が必須と感じていて、そのために自分を愛するということや、自分の自己肯定感を高めるということを長らくさんざんやってきていて手応えは感じているのだが、まだどうしても頭の上に薄いサランラップがかけられているような、イマイチ突き抜けられないような感覚が拭えなかった。
誤解ないように記載しておきたいのだが、私はみんながみんな自己開示をしなくてもいいと思っている。ましてSNSで何をどこまで人に開示したいか、人の開示する物事をどこまで許容できるか、には人それぞれのラインがあって当然だと。
いや、ちょっと違うな。
正直にいうと、本当は、みんなが丸裸でララララ〜と飛び跳ねていて隠し事など何もない(できない)世界が実現したらいいなと私は思っている。
というか、いつか(何世紀先かわからないけど)きっと世界はそうなるとどこかで信じてもいる。
そして、そういう世界を目指すための一員として私はこの残りの今生を使いたいなどと情熱を燃やしてもいる。
ただ、今のこの社会の成り立ちの中では「さあ、みんな、丸裸で踊りましょう!」とはとても誘える状況にない。何より、「あんた自身が丸裸で踊れてないじゃん!」と常に突っ込んでくる自分がいる。
だからこそ私は丸裸で踊れる世界を目指すメンバーの一員として、まずは自分が丸裸をさらけ出すことを試みようと意識的に取り組んできていたのだが、頭の上のサランラップはなかなか破れなかったのだ。
それが、何と、昨日、思いがけず、ベリッと破れたんである。
いや、完全突破できたかはまだわからない。
ただ、頭の上にあった透明の薄い膜が何であったか、ようやく謎が解けたのだ。
ああ、突破口が開いた!
思いがけず長くなったので続きは改めて後編にしたためます。
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