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書くことに対する最近の心境の変化

書くこと、とりわけ、書いて何かを伝えようとすることに私が難しさを感じるのは、そもそもの前提を揃えることが難しいことです。

たとえば、愛、という言葉。これを私が使う時に考えていることと、読んだ人が愛という言葉でイメージすることはそれぞれ異なります。

だからといって、「愛っていうのはこの場合、こういう意味で…」と一つ一つ説明していくと、どんどんと文章が長くなってしまいます。少なくともどこかの段階で諦めないと結局何が言いたいのかわからない文章になってしまう可能性が高いです。

それもあって、私が職業ライターを名乗っていた時、一番気にしていたのは前提を揃えることでした。

どんな人に伝えたいか、ターゲットをイメージして、その人たちが考えていそうなことを前提にして、言葉を出していました。

ただ、ある程度ターゲットを絞ってイメージしても、やっぱりいろんな人がいるから前提を揃えるのは難しいんですよね…。

たとえば、子育てに仕事に頑張っている30代の女性とイメージしたとしても、その人はシングルマザーか? 夫との関係、両親との関係はどうなのか? 子どもを産み育てること、働くことを人生においてどういう位置付けで捉えているのか?

考えれば考えるほど千差万別。

だからこそ、マーケティングの世界ではよく「ペルソナ」と言われる、超具体的な架空の一人を作って、その人にコミュニケーションしていくという手法が使われるのでしょうが、私自身は長い間、それに抵抗があったのです。

ペルソナでイメージした女性Aさんには「頑張ろうね」という言葉が元気づけになったとしても、そのペルソナから外れるけれど同じように子育てと仕事に頑張っている女性Bさんには「頑張ろうね」は負担に感じられるかもしれない…そう考えると、あっけらかんと「頑張ろうね」と書くことができなかったのです。

でも、そこは気にしなくていいというか、自分のコントロールできる範囲でないことに執着していただけかもしれない、と最近思うようになりました。

私としては、AさんにもBさんにも気配りをしていて、だからこそ「頑張ろうね」なんて安易には書かないのだ、なんて思っていたけれど、実際には、AさんにもBさんにも喜ばれたい、もしくは嫌な思いをさせたくない、というだけで、本音は自分が嫌われたくなかっただけなのかも、と。

書くと当たり前だけど、何かを発言する、という行為までが自分で責任を持てる範囲であって、相手がその発言を受け入れてくれるか、どう受け取るかは自分でコントロールできる範囲にはありません。

もっと細かく突き詰めると、相手の立場を思いながら、自分の真意を受け取ってもらいやすいように発言する、というところまでは自分の責任範囲と言えますが、それが一対一の対話ではなく、SNSなどで大多数が相手になった場合、私にできるのはやっぱり一番お話ししたい相手を想定して書くしかなく、それ以外の誰かを混乱させてしまったり怒らせてしまったりするかもしれない可能性については受け入れるしかないと諦めることにしたのです。

諦めるというとちょっと後ろ向きな響きがありますが、どちらかというと自分のコントロールできない範囲のことまでコントロールしようとしていたことを手放すという、自分としては前向きな諦めです。

諦めた時、私にとって、書いて伝えるということは、誰かに何かを理解してもらうためのものではなくなりました。

じゃあ何なのかというと、立ち止まって考えるきっかけなり、もしくはそこから具体的な対話が始まるなり、何らかのきっかけを作るもの、かな?

思うに、書き手も読み手も、それぞれそもそも持っている前提が全然違う、という視点を持って読み物に接することができたら、文章を通して行われる交流(物理的な交流も、精神的な交流も)はすごく豊かなものになるんじゃないでしょうか。

なんて書いてみたけど、その視点を持てていなかったのは私だけだったりして。しかも、書き手としては持てていても、読み手としては持てていない気もします…。

前提が違う、というのもまたわかりにくい表現ですし。

ただ、それぞれが人生で体験してきたことが全然違うから自然と備えている前提もまた全然違っている、ということこそが昨今よく言われる多様性で、多様性を認めるというのは、前提が違って当たり前であると認識した上で交流をすることなんじゃないか、そう考えています。

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