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私はしているのか、されているのか

何かを「する」側と、何かを「される」側がある。
言語で言えば、前者は能動態。後者は受動態。
でも、実は、大昔の世界では、
「する」でも「される」でもない状態があった。
それを中動態と言った。

というようなことを、國分功一郎さんの
『中動態の世界 意志と責任の考古学』を読んで
学んでいる最中なのだが、
いやはや、目と鼻の位置が入れ替わっちゃったかも
と思うくらいの衝撃がある。

何が衝撃かって、自分が当たり前に思っていたことが
当たり前でなかった時代の方がずっと長そうだってこと。

そうやって言葉に置き換えてしまうと
そんなこと考えるまでもなく当たり前でしょう
と言いたくなるんだけど、
これまた当たり前に言われているように
知識として知っていることと
その知識が自分ごととして腑に落ちることは
全く別物なのだ。

中動態の話に戻ると、つまり中動態の存在というのは
自分の意志で私が「した」ということと、
自分の意志とは関係なく私が「された」ということ、
その区分けではしっくりこない動詞があるということだ。
たとえば水を飲みたいと思って水を飲むとき
水を飲むという行為は自分の意志かもしれないが、
水を飲みたいという衝動を起こしたのは意志なのか?
というようなことだ。

私は自分の意志でこのnoteを書いているのだけど、
書きたいという気持ちが出てきているということは
私の意志とはちょっと違って、
その観点から言えば、私は書かされているとも言えなくもない。
けれど、その書きたい気持ちに従うと決めたのは
自分の意志のようにも感じる。

実を言うと本はまだ読破していないので、
その辺りは読み進めたらわかるのかもしれないし、
わからないのかもしれない。

今の時点では、私にとってこの本は、
我々が物事を見たり考えたりするときには
そもそもその思考が立脚する前提にも疑問を持った方がいい
ということを伝えてくれているように感じている。
簡単に言えば、我々は自然にしているとつい
「する」か「される」で考えがちだけど、
そもそも「する」か「される」かで考える話なのか、
というそもそも論まで見てみる必要があるんじゃないか
ということだ。

ちなみに、この本を開くたびに思い出すのは
かつてインタビューさせていただいた
リトルトーキョーにある禅宗寺のご住職
小島秀明先生の言葉である。

「わかりやすいものの方が受け入れやすいと思うのですが、
わかりにくいものの面白さが伝わるといいなと思います。
今は何でもインスタントに答えを求める傾向にあります。
それも大事なこととは思いますが、
それとは違う価値観をもう一つ持っていても
いいのではないでしょうか」

というわけで、よくわからなくて難しく感じる一方で
よくわからないけれど面白いとも感じるこの本を
読み進めることを楽しんでいる読書の秋です。


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