冬と、ワインと、わたし。
不意にワインを飲みたくなった。
普段、お酒を飲まない我が家にはワインの買い置きがない。だから、トレダージョーズに走った。なんでトレダージョーズかというと、イタリア人ヨギの友人Sが教えてくれた1本6ドルと安いのにおいしいワインがここにあるからである。
アリアニコ(Aglianico)という種類のブドウを使ったワインで、ワイナリーはエピクロ(Epicuro)。
なんらかの会話でワイン談義になり、私は赤ワインが好きで、強いていえばブドウはカベルネソーヴィニヨンが好みだと話したら、「だったらきっとこれも好きだぞ」と教えてくれたのだった。そして、試してみたら本当に好きだったので、以来、我が家の定番のワインとなった。
わたしにワインを買いに走らせたトリガーはYouTubeだ。
日本の芸人の男の人たちがお酒を飲みながらくだらない話をして大笑いしている映像を見たのだ。
なんだか懐かしい、と感じて、でも、いやいや、わたしは男じゃないからこんな飲み方をしたことはないのでは、とも思い、しかし、そうだ、前の夫とわたし、お互いに若かったとき、こんなふうにお酒を飲んで、ときに真剣な話をし、ときに馬鹿な話をし、もはや同じように酔っ払っている人にしか通じないであろう面白さを共有した時間があったではないか、と思い出した。
そして、飲みたくなった。
飲んでもその時間は返らないことはわかっているのだ。けれどきっとその時間が脳内で再現されたときに、体はその時間を再体験しているように勘違いして、「ちょっと待て、酒、酒だ。酒が足りていない」と反応してきたんじゃないか。
知らんけど。
若かりし頃、わたしにワインを教えてくれたのはその亡くなった夫だったのだが、彼が亡くなった後、「彼といえば焼酎でした」「あの人とはよく日本酒を飲んだ」というふうに焼酎や日本酒をお供えに持ってきてくださる方がたくさんいて、人によってずいぶん思い出が違うのだなぁと思ったことを覚えている。
彼の中でその時々でブームのお酒があったのか、それとも飲む相手に合わせて飲むお酒を変えていたのか。わたしと飲むときに焼酎や日本酒だったこともあるので、単に我々が、共に飲んだときに印象深かったお酒を「彼が好きだったお酒」として覚えているだけか。
そういえば、彼が亡くなる数時間前に、わたしたちは若い頃に二人で飲んで笑ったときのことを話したのだった。
君が駒沢公園の近くに住んでいたときは、あの店によく行ったよね。あそこは鰻入りの玉子焼きがおいしかった。店主が亡くなったか何かで店は閉店しちゃったね。あの店、名前なんていったっけ?
中目黒の、器にこだわった店も行ったよね? あ、いや、あの店も駒澤大学駅か? あのとき、俺は広告賞を取ったばかりで、偉そうな広告論をぶちまけていた。今思うと恥ずかしいなぁ。
こうして書いているうちに、広告論をぶちまけていたときに彼が着ていた洋服まで思い出した。グレーのような、淡い水色のような、綺麗な色の薄手のタートルニット。そういえば結婚してから彼があのセーターを着るのを見ることがなかった。遺品を整理していたときも見た記憶がない。いつ処分したんだろう?
思えば、命日が近い。
今はアメリカに暮らしていることもあってお盆や彼岸などはうっかり忘れがちだが、誕生日と命日は忘れたことがない。
特に命日は、体がまず反応する。
年を越して、冷えてくると、ああ、この寒さはあのときの…というふうに体が先に寂しさを思い出すような。
でも、その寂しさは、今、寂しく感じているというより、当時感じていた寂しさが甦るような寂しさなのだ。
寂しさと、今の自分に、よくも悪くも距離がある。
お酒を飲んで熱弁をふるったりくだらないことを喋ったりして大笑いしていた若い頃の自分と、今の自分にも、距離がある。
そんなふうにいつのまにかできてしまった距離を縮めたくてわたしはワインを欲したのかもしれない。
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