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通勤日記ー電車で寄席ー

 一九九〇年代は、インターネットの普及ふきゅうにともなう、IT革命の入り口だった。

 LANラン(ローカル・エリア・ネットワーク)という小規模なつながりが、WANワン(ワイド・エリア・ネットワーク)という世界的な広がりの中に組み込まれ、いつのまにかLANは、ワールドワードにつながるのが当たり前になった。その結果、WANという言葉は、いつの間にかその輝きを失い、LANとインターネット(インター・ネットワーク)は、ほぼ同義で使われるようになった。

 余談だが、事務所内などのローカルなネットワークをイントラネットと言ったが、その言葉もいつの間にか使われなくなった。

 この時代、インターネットの普及にもっとも寄与したのは、WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)だろう。HTMLというタグ型の言語を使い、テキストや画像を使った情報発信ページを作れば、世界中の誰でも閲覧えつらんできる仕組みは、それまでの情報拡散スピードを飛躍的に向上させた。専門的な知識がなくても、簡単なホームページ作成ソフトを使えば、個人でも情報発信ができるという点でも、革命的であった。いまではWWW(ワールド・ワイド・ウェブ)は「ホームページ」という名前で呼ばれ、スマホの普及とともに、生活に欠かせない仕組みとなった。

 だが、一九九〇年代は黎明期れいめいき。初期のモザイクやネットスケープナビゲーターといったブラウザでは、文字と静止画が表示できるだけで、現代のように動画を表示したり、双方向のコミュニケーションをしたり、といった機能はなかった。

 そんな時代、日本のポータルサイトは、NTTがになっていた。ヤフーやグーグルが幅を利かすのは、もうすこし経ってからのことだ。

インターネットの普及にともない、コンピューター業界は、連日遅くまで仕事をする日々が続いていた。ぼくもその一人で、終電近くまで働くのはあたりまえ、月に何度かは徹夜作業を余儀よぎなくされた。

 仕事量が突出して多い時をピークと言うが、ピークも定常化すると、その言葉の輝きを失うものだ。ピークが定常化することで、新たなピークを生み、それが過労死という災難を加速させた。

 そんな時代のある日……。

     ☆     ☆     ☆

 その日の残業は比較的はやく終わり、有楽町ゆうらくちょう線に乗ったのが午後十時過ぎだった。運のよいことに、永田町ながたちょうで席に着くことができほっと一息、カー雑誌を広げた。友人が日産のステージア発表会に招待され、一緒に行かないかと誘われたのだが、都合がつかなかったので、雑誌で情報を得ようと買ったのだ。明治記念会館で行われたそうで、カルロス・ゴーン社長と会ったと喜んでいた。

 しばらく雑誌を読んでいたら、隣に座る初老の男性がつけるヘッドフォンから、普段あまり聴かないノイズがれてきた。ドラムが刻むシャカシャカという音ではなく、不定期にガーァという音が漏れてくるのだ。

 なんだろうと耳を済ませるも、なんだかよく分からない。ときどき拍手のような音も聞こえるため、何かのライブなのかと思ったが、年齢などから判断すれば、ロックやヒップホップで無いことは確かである。まあ、言い切るのもどうかと思うが……。

 そのうち男性がカセットテープのケースを取り出し、なにやら表面に印刷されている文字を読み始めて疑問は解決した。それは落語のテープだったのだ。確かにライブで、どこかの寄席で録音されたものだと思われる。

 演じているのは昭和の名人「三遊亭圓生さんゆうていえんしょう」、ぼくも好きな落語家である。若い人には、笑点の司会をしていた円楽えんらくさんの師匠、といった方が判りやすいかも知れない。そうでもないかな?(もと楽太郎の円楽さんではない!)

昭和の名人、三遊亭圓生

 ぼくも若いころ、池袋演芸場いけぶくろえんげいじょうや上野の鈴本すずもとなど、ずいぶん寄席に通った。千五百円くらい払えば半日楽しく過ごせるリーズナブルな娯楽場であり、彼女のいない独身男性にはいこいの空間だった。

 当時はテレビでも寄席番組が花盛りで、日曜の午後は本当に充実した時間が過ごせた。今は「笑点」くらいしか寄席番組は残っていないが、当時は「大正テレビ寄席」や「末廣演芸会すえひろえんげいかん」など、本当に楽しかった。ぼくは大正テレビ寄席の「バーゲンダヨ~~」というコーナーが好きで、牧伸二まきしんじさんが取り出す商品を、いつもワクワクしながら観ていた。

大正テレビ寄席

 その後の「がっちり買いましょう」という番組もよく観た。「夢路ゆめじいとし、喜味きみこいし」の二人が、絶妙の間によって買い物を進めるさまが、本当に楽しかった。「十万円、七万円、五万円、運命の分かれ道……」というあの早口も懐かしい。確か最初は五万円、三万円、一万円だったと思う。あの時代は、インフレだったのだ。

がっちり買いまショウ

 ぼくはこの番組を思い出すたびに、「オリエンタルカレー」。それも最中の皮に包まれたやつが目に浮かんでくる。何故だろう、コマーシャルでもやっていたのだろうか?

 当時は「鉄人28号」には「グリコ」、「風の藤丸」には「藤沢薬品」、「てなもんや三度笠」には「前田のクラッカー」と、番組と企業や商品がディペンドしていた。なかには「とんま天狗てんぐ」のように、テーマ曲に「せいはオロナイン、名は軟膏なんこう」と、商品名まで入れてしまうケースもあった。今風にいえば、コラボレーションなのだろう。

 もう一つ寄席ネタを……。

 ぼくが当時好きだった落語家は、正統派よりもアバンギャルドな人が多かった。つき家円鏡やえんきょうさん(のちの橘家円蔵たちばなやえんぞうさん、故人)、林家三平はやしやさんぺいさん(故人)、三遊亭歌奴さんゆうていうたやっこさん(のちの三遊亭円歌さんゆうていえんかさん。故人)、そして柳亭痴楽りゅうていちらくさん(故人)。特に柳亭痴楽さんの「つづりかた教室」が大好きで、あまりにも有名な「恋の山手線」は最初から最後まで空でいえた。あのくしゃくしゃな顔が懐かしい。

柳亭痴楽

 いまは忘れてしまったが……。「柳亭痴楽は良い男、鶴田浩二つるたこうじ錦ノ助きんのすけ……」で始まり、「彼女はきれいななうぐいす芸者(鶯谷うぐいすだに)、にっぽり(日暮里にっぽり)笑ったそのえくぼ……」と続く。山手線の駅が全てはいる物語は、落語の域を超えて芸術文芸作品といっても過言ではない。ちなみにぼくは、かの有名な「じゅげむ」のフルネームもいうことができた。

 話はれに逸れたが、隣の男性も圓生えんしょうさんの落語を楽しみながら、家路を急いでいるんだなと思ったら、妙に羨ましい気持ちになってしまった。ぼくも落語のCDでも買って、通勤時間を笑いで過ごそうかと思った。ただし、一人笑いに注意しながら。

     ☆     ☆     ☆

【補足】恋の山手線の全文(ネットの情報を参照しました)
「柳亭痴楽は良い男、鶴田浩二や錦ノ助(中村(万屋よろずや))それよりもっといい男。上野を後に池袋走る電車は内回り、ぼくは近頃外回り、痴楽つづり方教室の始り」「彼女は奇麗なうぐいす芸者(鶯谷うぐいずだに)、にっぽり(日暮里にっぽり)笑ったそのえくぼ、田畑(田端たばた)を売っても命懸け。我が胸の内、こまごまと(こまごめ込)、愛のすがもへ(巣鴨すがも)伝えたい。おおつかな(大塚)ビックリ、故郷を訪ね、彼女に会いに行けぶくろ(池袋いけぶくろ)、行けば男がめじろ押し(目白めじろ)。たかたの婆や(高田馬場たかだのばば)新大久保のオジサン達の意見でも、しんじゅく(新宿しんじゅく)聞いてはいられない。夜よぎ(代々木よよぎ)なったら家を出て、腹じゅく(原宿はらじゅく)減ったと、渋や顔(渋谷しぶや)。彼女に会えればエビス顔(恵比寿えびす)。親父が生きて目黒い内は(目黒めぐろ)ぼくもいくらか豪胆だ(五反田ごたんだ)、おお先(大崎おおさき)真っ暗恋の鳥、彼女に贈るプレゼント、どんなしながわ(品川しながわ)良いのやら、魂ちいも(田町たまち)驚くような、色よい返事をはま待つちょう(浜松町はままつちょう)、そんなことかりが心ばしで(新橋しんばし)、誰に悩みをいうらくちょう(有楽町ゆうらくちょう)、思ったぼくが素っ頓狂(東京とうきょう)。何だかんだ(神田かんだ)の行き違い、彼女はとうに飽きはばら(秋葉原あきはばら)、ホントにおかち(御徒町おかちまち)なことばかり。やまては(山手)は消えゆく恋でした」
「痴楽綴り方教室終わり。」♪

 「恋の山手線」が作られた当時は、西日暮里駅にしにっぽり(昭和四六年四月開業)はなかった。とうぜん、令和二年三月に開業する高輪たかなわゲートウェイ駅もない。

 個人的に思うのは、柳亭痴楽さんの流れをくむ落語家さんに、その二駅を含めた「新・恋の山手線」を作って欲しい。でも、高輪ゲートウェイ駅は、ちょっと組み込みにくいかな?

 もし柳亭痴楽さんが生きていたら、「おいおい、なんて名前つけやがるんだ」と、啖呵を切ったかも知れない。ぼくも、この名前には否定的だ。高輪とか高輪台で良かったように思う。

・・・つづく

注)一部の画像は、インターネットからダウンロードしたものです。

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