「休む」ということを、ずっと出来ていないような気がしていた。
撮影をしないのは簡単である。そもそも依頼が入ってない日に撮影はできない。
また、作業をしないのも簡単である。パソコンの電源を入れなければ良い。
そう思えば「休む」のは簡単に思えるが、家に作業場を構える個人事業主の私には、これが「サボっている」ように思えてならない。
撮影がないのは集客ができていないということであってけしからんし、作業をしないのは今やれることを先延ばしにしていることであって、同様にけしからんのである。
もっとがむしゃらに働かなければならないのではないか。自分を甘やかし過ぎてはいないか。やらなければならないことから目を背けてはいないか。むしろここで踏ん張らなければ、体を壊した時に安心して休めないのではないか。
ひとり暮らしの個人事業主である私は、いつでもこうした罵声を浴びている。他ならぬ自分自身から。
週に一度定休日を設けてはいるものの、そんな日にこそ、この罵声は一際ボリュームを上げる。休むべきだと自分は思う。周囲も休むべきだと言う。だけれども、休んだ責任を負うのは自分であるし、何より、もっと稼ぎたい。結果、撮影も作業もしなくても、ずっと頭は仕事のことを考えている。
要は心が休まらないのであって、何かこう、ずっとソワソワソワソワしていて、どこか脳とか脊髄の長ったらしい名前の神経がいつも昂っているような気持ちであった。
罵声を浴びせる私も、浴びせられる私も疲れ切っていた。不毛であることを自覚しながらも、甘えて自己嫌悪に陥るより疲労で倒れた方がマシである、という妙なストイックさで私は精神を保っていた。
そんな折、お客様から1冊の本を頂戴した。
それはそのお客様自身が書いたエッセイ集のようなもので、ご自分が過ごした休日について書いてあるものだった。表紙には私が撮った写真を使ってくれている。コーヒーカップを持って歩くお客様の、可愛らしい後ろ姿。
休めない私が休みについて書いてある本を頂くことに、何か皮肉めいたものを感じていたが、やはり自分の写真が使われていることと、毎回楽しい会話をして下さるお客様だったので、読むのをとても楽しみにしていた。
手触りの優しい緑の表紙の内側には、色とりどりの休日があった。キラキラした休日もあれば、ほっと落ち着く休日もあり、冒険のような休日もあって、私はただ同じ姿勢で文字を読んでいるだけなのに、右にめくるページが増える度、自分の体験も増えていくような気持ちがした。
私は自分が過ごす、ただ電池切れの体に罵声を浴びせる休日のことを思った。金太郎飴のように毎回同じ、体は動かしていなくても、何かが消耗していくのを止められずに過ぎていく休日。
私はこの休日に色を与えることをサボっているのではないだろうか。私が過ごしている休日は、ストイックというよりむしろ怠惰なのではないか?思考放棄している自分を、仕事漬けにすることで高尚に見せているだけなのでは?
むくむくと、そんな気持ちが湧いた。
ある日、私は連日の耐え難い肌のかゆみに耐えかね、午前中に皮膚科へ向かった。強い雨が降っていて、久々に上着を羽織る必要性を感じる涼しさだった。
病院の後に薬局へ向かい、薬をもらう。目的は全て達成した。外へ出て、傘を開く。
傘を打つ雨の振動が、私の鼓膜を叩いている。この雨を吸った土は、柔らかく濡れて、植物は気持ちよく葉を伸ばすのだろう。あの本の中にあった休日で、お客さんが息を吹き返したように。
私は自分の進むべき方向を考えた。左に向かえば家だ。片付けたい作業なら沢山ある。だが、今日片付けなければならない理由はない。私が選べば、今日は休日になる。
右に向かおう。
今日はあまり肌のかゆみをあまり感じないな、きっと雨で涼しいからだな。これなら、どこにでも歩いていけるな。それなら、どこに行こうか。
遊べ、休め。
久々の、私の私による私のための休日。