見出し画像

私にとって「桜はまた来年も咲くよ。」には限界があるという話

「桜はまた来年も咲くよ。」
誰かがそう言ったし、私もそうだと思っていた。すっかり散ってしまった桜も、来年の春にはまた満開になるだろう。そして、みんなで花を楽しめる日が来る。でも、私は来年は咲かない桜に出会ってしまった。今日はそのお話です。

*** 

ある日パン屋さんへ歩いて向かっている途中、民家の奥に立派な桜があるのを見つけた。誰の敷地かもわからない、入っていいかもわからない。冒険のような気持ちで桜を見に行った。

桜の塩漬けを作って、クッキーにでも混ぜようと思い花びらを集めていると、おばあちゃんが近づいてきた。どうやら民家に住んでいる人らしい。散歩中にこの立派な桜に出会って見ていたところです、と伝えるとおばあちゃんがこの桜についてお話ししてくれた。

「この桜はもう今年で全部伐採されちゃうのよ。ここは団地ができるから、全部なくなるの。」おばあちゃんはこの桜の木を植えるところから知っているらしい。20年の仲だと言っていた。なんだか悲しいですねと伝え、少し立ち話をしたらおばあちゃんは林の中に作業しに行った。

1週間くらい経って、同じ道を通ることがあった。何もなくなっていた。近くにはショベルカーがあって、そこには木一本もなく、土だけが残っていた。思わずびっくりして、おばあちゃんと会った日に一緒に散歩していたシェアハウスの住人にメッセージを送った。「本当になくなってる!」と。

***

こんな出来事があって、今の自分を支えるものは何か?と考えたときに未来への希望で自分を励ますことには限界があるなと思いました。もちろん、終息後に友達と会うとか、こんな企画をやっていきたいと楽しみにしていることはあるのですが、それがどれくらい先にあるのかわからない中で、そこを頼りにするのは難しいかも、と。

そもそも、支えるものがないと生きていけないの?と聞かれると別にないかもしれないです。ただ、3月から4月にかけて空白のような時間を過ごしていく中で落ち込んだり、いろんなものが手につかないような感覚がありました。それが問題なのかは分からないけれど、なんとなくいい感じではない、みたいな。

少し振り返ると3月末くらい、今までできていたことがどんどんできなくなった時、落ち込む時間がありました。「友達に会いたいなぁ」「実家に帰りたいな」と思いながら、夕方くらいになったら気分転換に散歩に行ってました。

4月の前半は、家で過ごす時間を楽しめる人と、落ち込む時間を過ごす自分を比べて情けなくもなりました。自分の目の前にある時間を大切過ごすことができていなかったような気がします。昼夜逆転に近い生活を送って、何も考えたくないから寝る!みたいな生活だったような。暇に耐えられなかったのかな。

そして、4月後半になってきてやっと事態の深刻さと、収束に目処があまり立たないことを心が受け入れ始めたような気がします。このころになると、予定されていたイベントが中止になっても「中止になったら、やっぱり落ち込んじゃうな。」と落ち込むことを自分の素直な感情として受け止めることができてきたような気がします。落ち込むくらい楽しみだったんだね、とか。

そんな2ヶ月を過ごして、じゃあ自分がどんな心持ちで毎日を過ごしたいのかというところが落ち着いてきました。

感情を受け入れていくということ

「桜は来年も見れるよ。」はもう魔法のような言葉だと思っています。明日はもっと良くなる、夏にはきっと楽しみが待っているという考え方もありますが、私は今この時を「なかったもの」として扱うことはしたくない。というか、そうやって見ないふりをしていると感情が私から離れていきそう、と不安になりました。

それに加え、正直な心はこうです。今年色々なものがなくなることは仕方のないこと、なのは十分分かっている。今年は仕方ないね、来年を待とうね、も十分わかる。だけど、やっぱり心の片隅では今年は今年、来年は来年。この春に予定されていたものは、全く同じものを経験することはできない。

きっと今年お花見をできなかった人、したかったけど我慢した人はたくさんいると思うけど、せめて今年見れなかった桜を嘆くこと、その感情は許されて欲しい。この事態だからこそ生まれる感情もあって、その感情はもしかしたら一生出会うことのなかったものかも。

感情はいつも私のことについて語りかけてくれます。例えば、人と会えなくてうずうずしていて、たまにちょっと人と会っただけでものすごく嬉しい気持ちになった時、自分は人からエネルギーをたくさんもらっているんだなぁ、とか。

理性を介して考えているものには、いろんな付着物が付いていると思っていて。人にこういう姿を見せたい、こんな自分でありたい、嫌われるのが怖い。自分が本当に何を考えているのか、そういうことを考えるためには私には感情が必須です。

だからこそ、私は自分の中にあるものを丁寧に拾っていくことを毎日毎日続けたいと思います。

日常の忙しさから離れたところで

感情を丁寧に拾っていく作業には、自分を疑う工程があります。さっき言った通り私の中には、私をよく見せたいとか、私が楽に生きられるように解釈をしている自分がいるからです。自分を嫌いになれ〜!と言っているわけではないですし、私も自分のことを認めてあげることは大切にしているのですが、仏さまでもないので付着物の付いた自分は存在するんだろうなー、って。

付着物のついた自分は、誰かと過ごしている時によく出ます。(そりゃそうでしょ、と思われそう。)ひとりでいる時と誰かといる時で発言が違かったり、本当は思っていないことを言ってしまったり。だから私の場合は自分と向き合う時間はひとりで過ごすときが多いです。誰かと話した帰り道にあの時こうやって言ってたけど、なんでだろう?とか、あの言葉には正直傷ついたな、とか。

生活が忙しいと自然にそういう時間が減ります。目の前のことでいっぱいいっぱいになります。過去の自分の言動を保存する容量がなくなってしまうし、来たる明日に備えることが大切になってしまうから。そういうとき、なんで時間はこんなに勝手に進むんだろうとか、あの空港にある平面のエスカレーターに乗っているような感覚です。

でもふと現状を見たとき、今って比較的時の流れが遅くなっているのでは?と気づくことがありました。私が望んでいた歩く速さで歩いても大丈夫な時間が流れているのでは、とか。

今だからこそ出会える感情に時間をかけられることは、とても有り難いような気がしています。ただ、ちょっと贅沢を言わせてもらえば感情が刺激されるような機会(人と話す時間)は減ったなと思いますが。人と話す時間は大切だと再確認ですね。

***

来年は咲かない桜のお話から、自分がどういう気持ちで今を過ごしたいのかを考えてみました。感想やご意見などと一緒にツイートしていただけると嬉しいです。

画像1


いただいたサポートは、私が私の言葉にしたものを「あっよかったんだな」と信じるきっかけにさせていただきます。