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自分の外見に無関心って幸せかもしれないけど面白みないなー、と正直思う。

美意識がある人が好きだ。 それは美しい人が好きだというのとは違う。 人によくみられたい、 惨めな部分を隠したい 情けない自分にがっかりしてしまう こういうのも美意識の類に入ると思っていて そういうそれぞれの人が持つ「こだわり」がいいのですよ そういう意味で言うと 私はある意味、自分自身を全て受け入れてます!みたいな人がどうも苦手だ よく寛容と無関心は紙一重って言うけれど 特に容姿の場合は本当にそうだなと思っていて 自分の容姿に対してなんでもいい、 外見ばっかりなんで気

    • カビは汚いけれどさ

      夏の間、エアコンを切らずにずっと窓を閉めっぱなしにしていたからか、壁の一部にカビが生えてしまった。 外側に室外機がある部分の壁なのだが、そこだけにカビが生えている。 部屋を換気してみたり、カビキラーを薄めた液体を浸したキッチンペーパーを壁に貼り付けて掃除してみたり、歯ブラシで擦ってみたりしたけれど壁は汚いままで、一向に綺麗になる気がしない……。 でもさ、こういうカビとかを通してなんかいろいろ自分らしさみたいなものが見えてきちゃって、面白いんですよ。カビが部屋に生えて何が面

      • 接客を通して養分をもらってる

         9時に職場に着かなければならない場合、朝8時過ぎには家を出る。しかし、この日は7時45分くらいに起きてしまったのだ、完全に寝坊です。最低限のヘアスタイリング、メイクをして、残りのメイク道具は雑多にポーチに入れて家を出た。朝ごはんも食べてない、メイクも雑、なんだか顔も浮腫んでいるような気がする、こういう日は朝から虚無感に駆られる。 朝、普段だったらもうちょっと余裕を持って起きて、朝ごはんをしっかり食べるのだけどこういう日はなんだかスタートダッシュをこけたような気がして、気分

        • 心配すること/されること

          人にあなたのことを心配していますと伝えるとき、心の境界線をえいっと「失礼しますからね〜」と超える勇気が必要である。勇気とあと少しの無神経さだ。 「心配はかけてはいけない」「心配ご無用」「心配させてすみません」あたかも心配は、なにか心配をもらう人が生み出しているような形で存在しているけど 心配をあげる人が勝手にしているのだ。してしまう心情であり、それがその人に対する愛なのだ。 心配をさせてはいけないから強くなるのではなく、心配をさせないように伝えるのだ。それが心配をもらった

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           苦しいはずなのに、もう誰にも会いたくないと思うはずなのに先の予定は楽しい予定ばかりで、その予定のたびにインスタのストーリーを自分が更新して、予定が終わって心がズンと重くなる。この心の寒暖差に自分自身信じられなくなる。 おおむね気持ちが全然前向きではないのに、内定者研修、卒論発表、内見、卒業旅行、時間だけが前に前に進んでいって その時間の早さについていけるのか、予定をたてて計画的に行動するのが苦手な私に毎日毎日不安が込み上げてくる。 計画して、それ通りに実行するしか解決方法

          眠りの中にいる無意識の状態から、今日の始まりを意識する瞬間。今日、いちにちの中で最初に見るものがこの景色なのです。山の向こうから昇ってくる太陽の光を「綺麗だな」と思うことで始まる生活の贅沢さ。

          眠りの中にいる無意識の状態から、今日の始まりを意識する瞬間。今日、いちにちの中で最初に見るものがこの景色なのです。山の向こうから昇ってくる太陽の光を「綺麗だな」と思うことで始まる生活の贅沢さ。

          「聴く」という行為についての私の問題意識 |卒業論文頑張るぞnote⑴

          大学4年生の秋と言えば、卒業論文中間発表です。 月末の発表に向けて、卒論のテーマや研究背景などを真面目に人に伝えるための言語化をやっとのことではじめました。 以前より、「聴く」という行為や物事の受け取り方ということに強く関心がありましたが、なぜ自分が聴くことに興味があるのか、何を問題だと思っているのかという部分を教授の頭と言語をお借りしながら言語化していきます。教授のおかげで、自分の頭の中にある抽象的な関心ごとがどんどんそれっぽい言葉に訳されていく時間がなんとも嬉しいです。

          「聴く」という行為についての私の問題意識 |卒業論文頑張るぞnote⑴

          媚びない会話が好き

           会話において、媚びない関係というのは本当に風通しがよく心地いいなと感じることが多い最近。媚びない会話と言ったけれど、媚びていない言葉のやりとりこそが「会話」なんじゃないかな、と思うわけです。 先日、男性とご飯を食べていてまっすぐな目をしてこういうのです。 「僕は今、次にどんな話をしたらあなたが楽しんでくれるかを真剣に考えています。」 む〜〜〜〜〜〜、となって。あなたの提示してきた話を私がジャッジさせられているような感覚になり、私はこう返しました。 「この時間を楽しむことと

          媚びない会話が好き

          愛は自分の心を差し置いて

          昨日、急に兄から電話がかかってきた時、私は運転中だった。 「大事な話がしたいから、ビデオ通話にしてほしい。」と言われて、そんな映像を見ながらする大切な話なんて、いつも気さくな兄が 痩せた姿を見せてくるか、何か大きな怪我をしたか、美味い酒を飲んでいるか、家族団欒な姿を見せたいか、のどれかだろうなとクスクス予想しながら いつもより気持ち急ぎめで、帰宅後、車から降りて家に入った。 ビデオ通話を繋いだ先にいたのは、まるで梅干しみたいな変顔をしている兄と、覗き込む母の顔。私が最近、精

          愛は自分の心を差し置いて

          ユーモアある30代おじさんのはなし

          「OJI」というのが最近のホットワード。ホットワードなんて言葉あるのかな、と思って打った後に、検索すると、あったあった。ところで、最近のホットワードOJIについてですが、これが何を指しているのかっていうと、30歳から40歳くらいの男性のことです。 マッチングアプリを漁って、自分の足では出会うことができなかったであろう人に会いにいくのは、もはや趣味のようなものですが 最近出会った、OJIがいて。 おしゃれな雰囲気のプロフィール写真で、映像関係か何かのクリエイターって感じなの

          ユーモアある30代おじさんのはなし

          これが社会というなら、死んでやりたいと思った

           以前はやさしい人になりたいと心から思っていて、なんとなくふんわりした言葉を使い、人に優しい人に憧れていた。明朝体よりも、筑紫丸ゴシックが似合うような言葉を身にまとっていたと思う。あのときが偽りの言葉だったかといえばそうではないが、歳をとり、自分のことを正しく受け取ってもらい、その上で人付き合いを大切にしたいと思うようになってからは等身大の自分を表現することがだんだん得意になったように思う。   テーマの本題に早く入らんかい、とそう言いたくなるような前置きを書いてしまったが、

          これが社会というなら、死んでやりたいと思った

          曖昧な関係性の中でどこかへいってしまった好きの気持ち

          男女の友情が成り立つかどうか?という問いに答えるなら、成り立つかどうかは正直わからないが、成り立たせるために努力したいと思うような異性の友達が私にはいる、と答える。正直、最近、恋愛に関して私はこじれてるんじゃないか、と思うことが多くて。この人と付き合いたい、純粋な好きという感情はどういうものだったのだろう、とこの2年ほど悩むのだ。 とはいえ、かつて恋人がいた時もあり、その時のことを考えると私にとっての「付き合ってください」は理由なく会える約束の取り付けだった。なんとなくだけ

          曖昧な関係性の中でどこかへいってしまった好きの気持ち

          相談したいと思っていた相手にふとコンビニの駐車場で出会い、私の顔を見て「はっ」とどこかへ行こうと、気づかれないような素振りをされた、ような気がする。「またLINEしますね。」と私から言い、笑顔でその場を離れるも心はすごくつらくなってしまった。みんな嫌なことはやりたくない、んだな。

          相談したいと思っていた相手にふとコンビニの駐車場で出会い、私の顔を見て「はっ」とどこかへ行こうと、気づかれないような素振りをされた、ような気がする。「またLINEしますね。」と私から言い、笑顔でその場を離れるも心はすごくつらくなってしまった。みんな嫌なことはやりたくない、んだな。

          いちにちの始まりはいつだってマイナスからはじまる。

          いちにちの始まりはいつだってマイナスからはじまる。朝、目が覚めたときには「あぁ、またいちにちが始まるんだ」とか「人に今日はどれくらい会うんだろう」とか、今日の頑張らないといけないことを考えて、むくり、とベッドから降りる。そもそも睡眠というのが幸せな時間過ぎるというのもあるけどね。 昨日、シンガーソングライターのヒグチアイさんが自身のインスタグラムで悩み相談を募集していた。「最近生きるのが辛いです」というお便りにヒグチアイさんはこう返していた。 「生きるのが辛いが常である」

          いちにちの始まりはいつだってマイナスからはじまる。

          「言葉」への感謝を込めて

          言葉への愛が溢れ出し涙がつーっとでたのは、就職活動の最終面接が終わったときだった。愛っていうのは具体的にいうと、あぁ言葉をもっていてよかったなぁ、これまで言葉と諦めず向き合ってきてよかったなぁ、という感情で。言葉に向き合うということは、何かその言葉になる前の「何か」に注目して、それを伝えたい誰かが理解できる範囲にあってかつ、いちばんしっくりくる言葉を自分の中から探す行為だ。 最終面接を受けていた志望先はアパレル関係の企業で、私もその企業が有してるブランドが好きだった。実際に

          「言葉」への感謝を込めて

          光の元で「差し」向かう | 映画「窓辺にて」を見て

          先日、今泉力哉監督の「窓辺にて」という映画を見に行った。主人公の稲垣吾郎は妻の浮気を知るも、妻に他する悲しみや怒りの感情が湧かず、なおかつそのことにショックを受けるという、かなり自分に対して分析的で正直な役を演じていた。劇中には主人公以外の登場人物も"一筋縄ではいかない"恋愛をしている。そんな登場人物たちをめぐって、さまざまな人間の関係性が描写される、あまり起承転結も何か一つの確固たるメッセージも見つけることが難しい映画だった。 今泉力哉監督の映画は「愛がなんだ」を見たこと

          光の元で「差し」向かう | 映画「窓辺にて」を見て