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からだは星からできている

先日、久しぶりに図書館をぶらぶらしていたらめぐり合った本。

「からだは星からできている」(春秋社:佐治晴夫)。

もはや死語になってしまった感がありますが、本のタイトル、表紙の楽譜(交響楽の譜面のような、、)のイラストに惹かれた「ジャケ買い」ならぬ「ジャケ借り」でした。

著者は東京大学で基礎数学、理論物理学を学び、東大物性研究所に勤務したりNASA客員研究員の時にはボイジャー計画のET(地球外知的生命体)
探査プロジェクトにも関与されていた方。

ピアノやパイプオルガンを演奏し、音楽や文学にも造詣が深く、数学、物理学や、天文学と融合されたお話は大変奥深いものがありました。

章立ても

「宇宙の研究が目指すこと」
「神話にみえる宇宙観」
「見えないものと向き合う」
「生と死を超えるもの」
「宇宙のひとかけらとしての私たち」
「宇宙のからくりに学ぶ人生の歩き方」 などなど。

宇宙研究を通じて人間とは何か、生きるとはなにかという哲学的な領域にどんどん分け入っていく感じです。

すべての物質をつくるもとになる元素たちは、ことごとく星の中で合成され、星は超新星爆発という形で終焉を迎えた時、宇宙空間にばらまかれますが、私たち「人間」もその「星のかけら」が集まってできているのですから、脳の中に、はるかな宇宙進化の記憶が刻みこまれているといっても言い過ぎではないのです。

(「からだは星からできている」p2)

そういえば、以前のnoteで「ヒトのネダン」という記事をアップしましたが、人体を構成する元素の亜鉛、鉄、マグネシウム、カルシウム、炭素、窒素などはまさに「星屑」たちであり、私たちはその星屑が寄せ集まってできていると考えると、なんだかものの見方が変わってくる感じもします。   

特に、「宇宙研究からわかった三つのこと」という章では

(1)すべては、ひとつのものから始まった
(2)すべてはお互いに関わり合っている
(3)ものごとはすべて、相反するものがバランスを取りながら存在している

という3つの分かったことを、印象深い事例で紹介されています。

こんなことを、とある場で話しをしたら、量子物理学の大学の先生から、
「もうひとつ付け加えたい」とおっしゃりました。

『(4)真理はしばしば矛盾する』

ということでした。

先生曰く
「光は「粒子」であり「波動」であるといういうこと。
 認識するレベルが十分でない状況から、より認識する力、世界観を洗練さ 
 せてより高次元の視点でみると、矛盾は解決するのです。
 つまり、「粒子性」と「波動性」は矛盾せず、「量子」が真実であると 
 いうことです。」

「とは言え、量子力学が登場する前から、ドイツ哲学者のヘーゲルが『弁証
 法』という概念、正、反から「止揚(アウフヘーベン)」して「より高い
 次元の世界観を作り上げていることは注目に値すると言えます。」

宇宙物理学や量子物理力学となると、もはや自分の理解の範囲を飛び超えていますが、極大な世界と極小の世界という両極端に見える分野をお互い究めていくと、それぞれお互いの世界に行き着くような、コインの裏表のような何か繋がっているよな壮大なロマンを感じてしまいます。

「光は粒子であり波でもある」、ということは、なかなか日常感覚ではつかみにくい感じでもありますが、その先生のお話を聞くにつれ、(4)の分かった事(=原理原則)は、逆も真なりで、

(4)’ として、「矛盾したところに真理が潜んでいる」

ということも言えるのではないかと思いました。

そんなことをふと思ったのは、以前に読んだ「売る力(心をつかむ仕事術)」(文春新書:鈴木敏文)の話題にも繋がっている気がしたからです。

より、身近な例で言えば、「セブンカフェ」。

美味しいコーヒーが100円台で飲むことができますが、その商品開発には「上質さ」と「手軽さ」のトレードオフを乗りこえて出来たものであることが、この本で語られています。

お客様は「上質さ」だけでも満足しないし、「手軽さ」だけでも満足しません。「上質さ」か、「手軽さ」かのトレードオフにおいて、「手軽さ」なら手軽さ一辺倒ではなく、どれだけ「上質さ」をちりばめられるか。逆に「上質さ」なら上質一辺倒ではなく、そのなかにどれだけ「手軽さ」をちりばめられるか、そこに価値が生まれるのです。
ポイントは「上質さ」と「手軽さ」というタテとヨコ、二つの座標軸で市場をとらえたとき、競合他社も進出していなければ、誰も手につけていない「空白地帯」を見つけ、自己差別化をすることです。

(「売る力」p55)

セブンカフェを弁証法的に表現すれば、「一見矛盾する「上質さ」(正)と「手軽さ」(反)をアウフヘーベン(止揚)して新しいコーヒー(合)が開発された」とも言え、これもまた宇宙の法則に則った営みなのかもしれないと思いました。

ビジネスシーンでもトレードオフを乗り越えて、単に足して2で割るのではなく統合による調整の先に、新たな価値提供が生み出される領域があるということであり、これもまた同じことが言えるのではないかと思いました。

さて、「ジャケ借り」で気になった、表紙にある移し鏡に映ったような左右対称にも見える楽譜ですが、、J.S.バッハの「平均律クラヴィア曲集」第一巻、第一番の「プレリュード」とのこと。

この曲は、1977年にNASAが打ち上げたボイジャー1号、2号に地球外知的生命体との遭遇を想定して、五十か国語の言葉による挨拶の他に地球の音情報を収めた一枚の録音盤の中に収録されているようです。

ボイジャー号は太陽系・外惑星探査を目的としたものですが、地球外知的生命体との遭遇も想定している中、どのようにコミュニケーションをとるのかという話の中で、興味深い話が展開されています。

私たちは、宇宙の共通言語といえば、数学の論理だと考えています。もし、「A>Bで、B>C」ならば、「A>C」である、といった論理は、宇宙の普遍的な真理です。(中略)その頃、バッハの曲の音の配列と全体構成の中には特別な数学的性質が含まれていることに気づいていました。それはまた
バッハ作品の楽譜の見開き2ページを眺めると、そこには視覚的にも美しい幾何学的パターンが感じられることにも通じます。

(「からだは星からできている」p232)

音楽と数学という繋がりはまったく意識していませんした。

宇宙研究でわかったことの(2)「すべてはお互いに関わり合っている」という観点で見れば、音楽と数学的論理の美しさの関わり合い、共通性をバッハは既に意識していたのかもしれません。

そこで、宇宙の普遍的言語である数学と、脳のいちばん深いところにある聴覚とに関わる音楽を合体させることを意図して、バッハの「プレリュード」の搭載を提案したのでした。
演奏者は、カナダ生まれの天才的ピアニスト、グレン・グルード(1932~82)。今では、伝説上のピアニストです。

(「からだは星からできている」p232)

ボイジャーの搭載の録音盤の中に収録されたバッハの「プレリュード」は日本人研究者の佐治晴夫氏の提案であったとは、また格別の印象を受けます。

そして、1977年に打ち上げられたボイジャーはいまも太陽系外を飛行しつつ正常なデータを送り続けているということも驚きです。

ボイジャー1号は現在、地球から146億マイル(約235億キロメートル)離れた位置におり、ボイジャー2号は121億マイル(約195億キロメートル)の位置にいる。ちなみに参考までに補足すると、そこから最も近い星はおよそ25兆マイル(約40兆キロメートル)離れた位置にあるのだ。

(wired.jp/ 2022年9月8日記事)

バッハの「プレリュード」を搭載した人類が造った宇宙船が、いまだに黙々と宇宙の荒野を一人で旅をしている。

久しぶりに、ゆっくり星空を眺めたいと思いました。

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