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人馬一体、人機一体
この前の週末、久しぶりに自分の車を運転していた時。
ちょっとした小道を左折。まあまあ狭く、でも上手く曲がれると思ってハンドルを切った際に、ガガッという音が聞こえ、左後輪が縁石に乗り上げてしまいました。
助手席の妻からはきつい視線。。。汗
でも車体は擦ってはいないという感覚。でもでもちょっと自信なく。。冷汗
駐車場に到着。急いで降りて見たところ、車体にかすり傷がないことを確認しホッとしました。
同時に、週末たまに車に乗るくらいだと自分の車両感覚が鈍ってしまうなあと思ってしまいました。(それとも歳のせいか。。)
そんな変な情けない感慨にふけっていた時に、あらためて「車両感覚とは」と考えてみました。
車両感覚は「車を運転する上で必要となる、車体の前後の長さや左右の幅、および車体の位置や向きなどに関する感覚」とのこと。
それは、人間が何かの物体を活用して行動を広げる時、自分の身体活動の範囲が大きくなり、その物体を通して広がった感覚空間の認知・認識とも言えるのかもしれません。
そんな便利な物体の活用感覚の以前に、何だか人間の空間認識がみんな少し鈍ってきているのではないか。。
最近そんな気もしています。
例えば電車に乗っている時。
電車の入り口の直ぐ横には手すりと座っている人の間を仕切る板がありますが、その板に寄りかかってスマホの画面に熱中しているロングヘアの女性がいました。
入口に一番近い席に座っている中年男性の頭、顔にその女性の髪がしだれかかり男性はかなり不機嫌そう。
髪の毛を思いっきり振り払っても、女性は気づかない。
女性は背を向けてスマホに集中していて、後ろで起きていることが認識できていない模様。
また、ある雨の日の電車の中。
リュックを前にしょってマナーよく立っているのですが、リュック脇のヒモに傘をひっかけていて、傘の先端の水滴が目の前の座っている人の膝にポタリ、ポタリと落ちてしまっている。
こんなことは、ほんの些細なことなのかもしれないし、日常よくある話かもしれません。
とは言え、自分が手が届き、十分見る事ができマネージできる周囲1m(あるいは50㎝)の範囲内で自分、及び自分が持っているものでの周囲への影響のような感覚というものを、ある程度持ちあわせていた方がみんな気持ちよく過ごせるような気がしました。
自分のテリトリーが侵される時は敏感であるものの(この「テリトリー」は個人によってさまざまなので、それがまた厄介なような気がしますが)、自分が相手のテリトリーに踏み入っていることは案外鈍感になっているのかもしれない。
そんな中で思うのは、現在のテクノロジーの発展により人間の身体、活動そして精神が今までとは次元の違う形で「拡張」される時代になってきたということです。
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テクノロジーが社会に与える影響を研究、発信している。
人工知能、ゲノム編集、ナノスケール製造技術、自動運転車、ロボット、ウェアラブル、埋め込み型コンピューティングといった現在取り組んでいるテクノロジーは、次世代の人類のあり方を急速に定義し直しつつある。
この来たるべき時代を「拡張インテリジェンスの時代」または、よりシンプルに「拡張の時代」を名付けることを、私は提案しよう。
それは、テクノロジーの埋め込み化と個人化が急速に進んで、私たちの日常生活や行動が拡張されることからくるものだ。
確かに、多くのテクノロジーは人間の身体、知能を強化し、その活動範囲を広げて行くということでは「拡張」という概念で総括できるのかもしれない。
また、リアルな物理世界とバーチャルな情報空間が共存する時代の新しい身体像として、「自在化身体」という考えを提示している日本のプロジェクトもあるようです。
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「機械によって拡張された能力を、人が自由自在に扱えるようになる」
ことに関しての様々なアプローチからの研究・開発を行ている。
人間は肉体の制約から自由になり、限りなく拡張された能力を自由自在に使いこなす存在になるはずという考えのもと、『人間がロボットや人工知能などと「人機一体」となり、自己主体感を保持したまま自在に行動することを支援する「自在化技術」の開発と、「自在化身体」がもたらす認知心理および神経機構の解析をテーマに先駆的な研究を展開』しています。
(稲見自在化身体プロジェクトwebページより)
やはり、ここでも「拡張」という言葉が出て来ており、人間の今の能力を「拡」大し、引っ「張」り上げることをしようとしている。
機械、道具を有効利用、あるいは分身として、あるいは合体して個々人の能力が限りなく強化された先に、豊かな社会、スマートな社会が実現される。
その時、機械と人間の関係、そして「拡張された人間」同士の関係性、お互いの空間認識はどうなって行くのだろうか。
自在化プロジェクトのwebサイトには「自在肢(Jizai Arms)という近未来的な人と機械の在り方が提示されていて、まさに「人機一体」の研究での一つの姿が映像化されています。
あれこれ調べているうちに、人間の行動拡張の原点となる表現のひとつは「人馬一体」ではないかとふと思いました。
そういえば自分は子供の頃に体験で馬に乗ったきりだなあ、、と思いつつ乗馬関連の本を読んでみました。
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サブタイトルにあったので早速購入。
馬術の醍醐味は、馬との一体感です。ほんのわずかな力で出した指示を、馬が理解し反応してくれたときに喜びはひとしおです。
「自分の心を馬がわかってくれた」と大感動するのです。だから姿勢も扶助(馬の動きを助ける形で指示を与えること)も大事ですが、馬を感じることが一番大事です。
もっと言えば、馬にも自分を感じてもらうことです。それでこそ人馬一体と言えます。
人馬一体の大事なことは、「馬への命令=物理的に強い力を加えるもの」ではなく、「愛すべきパートナー」となっていくこと(同書「序章」)と著者は語っています。
では、無機物の固まりである物体とのパートナー関係はどのように構築されるものなのだろうか。
車が好きなとある友人は、ドライブを終えてから車から降りて家に戻る際に、必ず「ありがとうね、お疲れ様」と言って車体をポンポンと軽くタッチするという。
友人にとっては、その車は物体、物質だとしても「愛車」として、いやそれ以上の何か、誤解を恐れず言えば「生命」に近い何かを感じようとしているのかもしれない。
義足や義手も同じかもしれないし、自在化プロジェクトの「自在肢」という物も、なにか心理的な交流が起きてくるのかもしれない。。
「人機一体」
耳慣れない表現ですが、拡張された人間と機械の関係性。
その関係性は、単なる「物体」、「道具」としての関係性ではない「何か」が流れ始めるような気がしています。。