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ゴジラと知覧

桜が満開の時期合わせて、、
という訳ではありませんが、4月は「特攻基地 知覧」という本を読んでいました。

敗戦色が濃くなってきた昭和20年の春から夏にかけて、多くの特攻隊員を送り出した飛行基地。

「知覧」

その当時、奉仕隊、整備補助に駆り出された女子高生が満開の桜の枝を折って、生きて帰還できないことがわかっている老朽化した戦闘機のコックピットにその満開の桜を添えていたという。

「知覧」の本を読み始めたのは、映画「ゴジラ-1.0」を観たことがキッカケでした。

「ゴジラ-1.0」は、さすがアカデミー賞視覚効果賞を受賞するだけあって、VFX技術を駆使した精緻な画像のクオリティ。

そして、リアルを感じさせる圧倒的な迫力。

ゴジラが出現したのは昭和20年(1945年)の設定。
終戦の間際のストーリー

ゴジラが東京を蹂躙し、破壊し尽くす中、旧軍人、民間人が立ち向かう手に汗握る娯楽映画。

とは言え、なんだか主人公・敷島浩一の生き方がとっても気になりました。

この映画、「ゴジラ」ではなく、戦中・戦後を生きたひとりの「特攻隊員」敷島浩一(神木隆之介)の物語としてみた場合どうなんだろう。

また、守備隊基地の大戸島でゴジラによって引き起こされた凄惨な事件。

そこに不時着して居合わせ、生き延びた特攻隊員・敷島。

しかし、敷島は「戦闘機が故障で島に不時着」と言いつつ、実は整備不良ではなかったのではないかと疑いを抱きつつ、戦闘機の機銃でゴジラを追い払えば部下は犠牲にならなかったと敷島に恨みを抱えて生きてきた「整備士」橘宗作(青木崇高)の人生が交錯する物語としてみた場合どうなんだろう。

そう考えた時、凶暴なゴジラは映画の背景にすっと退き、戦争に翻弄された人間模様を色濃く描いたドラマにも見えてきました。

そして、もしかしたら、主人公・敷島もそこから飛びたったかもしれない特攻隊の基地。

「知覧」

自分自身、特攻隊が飛び立ったという名前だけは知っている場所で、実際何が起きていたのかほとんど分かっていませんでした。

「知覧」の著書、高木俊明は従軍記者として実際に知覧に戦時中に駐在し、特攻隊員、勤労奉仕の女学生、知覧の町の人々など多くの人々と交流しています。

鹿児島県に位置する寒村であった知覧は一時は皇軍の栄誉ある「特攻隊員」が集まる場所として活況を呈していた。

しかしその活況はほんのひとときで、時代に翻弄された10代、20代の特攻隊員の姿が映し出されています。

ぞの後昭和30年代後半まで、生き残った人々を訪ね、その当時の状況を丹念に追ったルポルタージュ。

特攻隊員には大学を繰り上げ卒業したメンバーのほかに、15、16才に入隊して軍人となった18、19才の少年飛行兵も。

15才の多感な時期に教官から鉄拳制裁で軍事教育を受け育った少年飛行兵が、心の葛藤を抱えつつ、それが普通の社会だと思い散って行く側面も。

今なら大学入学を終え希望に満ちて過ごす桜咲く時期、そして大学1年の楽しい初夏の時期。

戦後、生き残ってしまった特攻隊員、純粋な気持ちでお世話をしていた知覧高等女学校の方々。

そして戦後は世間からの手のひら返しの評価で苦悩する日々が待ち構えていた。

後世の者はいくらでも時空間の外で評することはできますが、その渦中の中で様々な想いを飲み込み、散って行った方々の事実を事実として正確に知りたいと思いました。

そして、終戦直前のため、物資が不足し戦闘機も整備不良、エンジントラブル等が頻発し、知覧の基地から決死の覚悟で飛び立ったものの引き返してきたり、洋上や付近の島に不時着せざるを得ない事例が多々発生していた。

当時、知覧高等女学校の奉仕隊だった方が、当時の状況このように語っています。

私たちの整備した特攻機は実にひどいものでした。ノモンハン当時のガタガタの単発でした。機体ビョウは、ねじでしめてもとまらないし、燃料タンクは穴があき、キャンバスでつぎあてしているのです。機関銃は操作不能でした。自由に語り出すことを禁じられていた時代に、私たちはそれをかみしめ、かみしめ、飲みくだすだけでした。何一つとして、この人たちを助ける道はなかったのです。泣くことも、感傷におぼれることも禁じられていました。特攻機の飛び立った空。その空を仰いで、私は飛行場の草むらに、顔を伏せて泣きました。泣いても泣いても、涙はとまらなかったのです。

同書「孤独のいのち」p62

また、隊員の中には決心したものの精神的に追い詰められたり、愛する人たちに後ろ髪を引かれる思いが強く、整備不良で何度も基地に戻ってきたりする隊員もいたという。

そして本当に整備不良だったものの他に、わざと整備不良として戻って来たり、付近の島に不時着した事例もあったという。

それは戦闘機をちゃんと整備していない整備士の責任にもなるため、そんな特攻隊員への恨み節も整備士たちにはあったようです。

まさに、映画「ゴジラ-1.0」の主人公・特攻隊員の敷島と整備士・橘の関係構図に当てはまるもの。

しかし、一方で知覧に供給される飛行機は、老朽機が過半を占めていた。

整備士にとっても死ぬことが分かっている中で十分な状態で飛ばせなかったという思いがあったのではないか。

それだからこそ、「ゴジラ‐1.0」での「整備士」橘が最後のゴジラ掃討作戦で元「特攻隊員」敷島へ最後に託した作戦につながったのではないかとも思いました。

また、もう一冊。
「今日われ生きてあり」

その当時の女子青年団の方の「語り」が胸に刺さります。

日本を救うため、祖国のために、いま本気で戦っているのは大臣でも政治家で将軍でも学者でもなか。体当たり精神をもったひたむきな若者や一途な少年達だけだと、あのころ、私たち特攻係りの女子団員はみな心の中でそう思うておりました。(中略)三十八年たったいまも。その時の土ほこりのように心の中にこびりついているのは、朗らかで歌の上手な十九歳の少年航空兵出の人が、出撃の前の日の夕がた「お母さん、お母さん」と薄らぐ竹林のなかで、日本刀を振りまわしていた姿です。立派でした。あンひとたちは・・・」

同書 第六話「あのひとたち」p98

こちらの本にも10代の「少年飛行兵」の姿が語られている。中には17歳で飛び立って行った少年もいたようです。

2冊とも手記、インタビューを通じて事実を淡々と構成したもので抑制の効いたルポルタージュとなっています。

唯一著者の想いが強く出ているのは一行だけ。

だが、特攻は戦術ではない。指揮官の無能、堕落を示す”統率の外道”である。

同書第十六話「素裸の攻撃隊」p218

そして、「きけわだつみのこえ」も紐解いてみました。

日本戦没学生の手記として岩波文庫のカバーには「酷薄な状況の中で、最後まで鋭敏な魂と明晰な知性を失うまいと務め、祖国と愛する者の未来を憂いながら死んでいった学徒兵たち」とメッセージされています。

「きけわだつみのこえ」は、旧帝大出身の方を中心とした20~25歳の若者の手記。

学問を中断せざるを得ない状況で、戦争に赴かざるを得ない心の揺らぎ、苦悩を「言語化」して、後世に伝える貴重なものとしてぐっとくるものがありました。

一方で、10代後半の少年飛行兵たちの言葉にできないもどかしさ。それが、知覧で出撃の前の日の夕方に「お母さん、お母さん」と薄らぐ竹林のなかで、日本刀を振りまわしていた姿を知るにつれ、彼らの苛酷な状況にも思いを馳せてしまいました。

「特攻隊員」敷島浩一は学徒出陣の兵士だったのだのだろうか、あるいは少年飛行兵だったのだろうか。そんなこともふと感じました。

さて、なぜこの2023年公開映画のゴジラを戦中・戦後の日本に出現させたのだろうか。

そして、ゴジラを相模湾に沈める作戦を立案した学者・野田健治(吉岡秀隆)。

彼は戦時中、技術士官として兵器開発に携わってきたが、今回のコンセプトは「誰も死なない戦略」という「海神作戦」。

来年2025年は終戦80周年。

ゴジラ映画、特殊効果と言う華々しい表現方法を世に問いつつ、特攻隊を背景にしたストーリーで「米国」のアカデミー賞受賞を受賞する意味合い。

この時代だからこそ大変意味深いメッセージを凶暴で手に負えない「ゴジラ」に託しているような気がしています。

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