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マイファミリーヒストリー

TVであるドキュメンタリー番組を見た。日本が2次大戦に負けたことで、満州に取り残された家族の過酷な運命と、その後を追った番組だ。
彼らは日本の国策のもと、開拓団として満州に渡ったものの、敗戦により全てを失った。侵攻してきたソ連軍の略奪に遭い、男性はシベリア抑留での厳しい労働で多くが亡くなり、女性や子供たちも戦後の混乱で家族と引き離され、子供たちの中には中国人に引き取られ残留孤児になった人も多くいた。

わたしも、もしかしたらその中にいたかもしれない。

母は昭和16年、満州国大連で生まれた。祖父は戦前より大連で満州鉄道関連の仕事に就いていたが、一時帰国の折に幼なじみだった祖母と結婚し、2人で満州へ渡った。
母が生まれた後、妹が2人、弟1人が生まれた。全員大連生まれだ。

母は大連での生活を途切れ途切れに覚えている。中国語の歌も覚えていた。日本でいうところの、咲いた咲いたチューリップの花が、というものらしい。
現在施設で父と暮らす母だが、中国人の研修生に歌を披露すると、知っている、と驚かれたという。

戦争が終わったのは母が4歳の時。ソ連軍が侵攻してきて、街はソ連兵だらけになったらしい。祖母が存命だった頃、何かの話で昔の話になった時に、ロシア兵のことを本当に嫌そうに口にしたのを聴いたことがある。「露助が、露助が」と。よほど嫌な目に遭ったのだと思う。
母も、一人で家にいた時に、外でロシア兵が銃を持ってうろついていたのを見たことがあるといい、とても怖かったと話していた。

帰国は昭和23年。終戦から3年も経つまで、家族は大連に残っていたのだ。祖父はどうやらシベリア抑留は免れたらしい。
引き上げ船では、家族は身一つで帰国したという。祖母は生まれてまだ3か月だった長男をしっかり胸に抱き、それだけは離すまい、としていたのを母は覚えている。実際、祖母の叔父への寵愛は孫のわたしにも分かるほどだった。それだけの想いをして帰国したのだから、無理もないともいえる。

その後、親戚が住む旭川市で職を得た祖父は、必死で働いたそうだが暮らしはかなり貧しかったらしい。祖母は和裁ができたので、ずっと家で子育てをしながら着物を仕立てる仕事をしていた。その後転職し国策パルプ(現在の日本製紙)で定年まで勤め上げたあとは、祖母と札幌へ。3番目の叔母家族と同居する家を建てて、悠々自適な暮らしを送った。だが寵愛する叔父と暮らしたいという祖母の強い希望で、祖父母は釧路市へ。医師となった叔父と二世帯で生活し、どちらも釧路で生涯を終えた。

祖母には初めてのひ孫である娘を見せることができたが、それは祖父の葬儀でだった。娘が生後2か月の時だった。食べちゃいたい、というほど喜んでくれ、苦労を共にした祖父が亡くなった悲しみが少しは癒えてくれたと思う。
祖母に最後に逢ったのは、娘が3歳、長男を妊娠中の時だった。長男に逢わせることはできなかったが、どこかで見ていてくれていると思いたい。

現在、83歳の母、79歳の叔母、75歳の叔父の3人が存命中だ。とはいえ、大連の記憶があるのは母のみで、叔母は殆ど覚えていないという。
母が生きているうちに、大連での様子や、戦後どのように生きてきたのかをまとめておきたい。祖父母があの戦争を生き抜き、家族を連れて日本に帰国してくれたからこそ、今の自分があることに心から感謝。


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