没後100年 山村暮鳥 ささやかなオマージュ作品集 #2
「殺人ちゆりつぷ」
やはり年をまたいだ上に前回から1ヶ月も経ってしまったが、もうしばらくオマージュ制作を続けたいと思う。
「囈語」の一節〈殺人ちゆりつぷ〉と、『パルプ・フィクション』を融合させてみた。大真面目に描いたつもりだが、すこし遊びすぎた感じになってしまった。
クエンティン・タランティーノの『パルプ・フィクション』は、私の大好きな映画の一つだ。
その理由として、この作品には「価値観の転換のお祭り」みたいな特徴があることが挙げられる。具体的には、以下のとおりだ。
・主人公の一人がボスの妻と禁断のロマンスのような展開を迎えるが、オーバードーズの事件が起こり滅茶苦茶になる。そこで取り乱した主人公は、ボスの妻をかなり雑に扱っている。
・悲惨な死が待っていそうな登場人物に、コミカルな幸運が次々と舞い降り、恋人と無事生き延びる。
・主人公格の人物は、あっさり殺される。しかもそこには、死の余韻もへったくれもない。
・はっきり全貌を見せなかったギャングのボスが、後半でファストフードを抱えながら何気なく現れ、変態に暴行される。
・「死体処理のプロ」という設定の登場人物の指示することが、掃除の基本のような世俗的なもので、ナンセンスさが際立つ。
・監督が脇役の一人として、何食わぬ顔で登場する。
・主役だけがいっさい被弾せずに敵をやっつける使い古された構図が、この映画の中では「奇跡」として大仰に扱われる。
要するに、一般的なイメージでは「当たり前」のものが「有り難い」ものになり、「重要」なものが「瑣末」になり、また逆も起こる。
ほかにも、細かな価値観の転換要素が、失笑を誘うかたちで映画の至るところに散りばめられている。
しかも、物語の構成自体が意図的に崩壊させられている。
パルプ・フィクション(安っぽい小説)と言いながら、チープな感動や感傷を寄せ付けないのだ。
ここには、映画という文化に対するとてもシニカルな態度があると思う。
伝統的・普遍的な価値観をあっけなく逆さまにするという、作り手にとっては自虐的ともいえるような醒めたやり方で、映画そのもの、ひいては観客さえもこき下ろしているからだ。
一方、『聖三稜玻璃』では、そうした価値観の転換を図った手法が、大変シンプルかつ象徴的に使われている。
たとえば、「囈語」にある〈竊盜(窃盗)〉/〈金魚〉も、〈強盜〉/〈喇叭〉も、道徳的・美的観点から考えれば結び付かない(結び付けるべきでない)二つの言葉をつなぎ、熟語のようにしている。
表現の形としては唐突すぎて、挑戦的にさえ思える。
のっけから価値観がひっくり返されるのだから、とくに発表当時は、読者の拒絶感も強かったことだろう。
また、「曲線」という詩では、〈麗かな騷擾(さわぎ)〉という言葉が出てくる。
昼下がりの静かな町角で、魚を積んだ車が何かを轢き殺してしまった状況に対する表現だ。
ここにその詩を載せてみる。
轢いたのは積み荷の活魚だったのか、それとも人だったのか。
明治・大正期は、子どもの交通事故が非常に多かったと言われている。
タイトルの「曲線」とは、もしかしたら、轢き逃げした車の血に染まった轍のことではないだろうか。
そんな惨事を想像させるにも関わらず、詩の視点はまるっきり対岸の火事のようで、たった六行の短い言葉で淡々と語られるのみだ。
寒気のする状況と視点を、綺麗な詩のレトリックで描く、価値観の転換の手法。
そこには、当時の世相への痛烈な皮肉が読み取れるように思う。
こうしたことから、『パルプ・フィクション』にも『聖三稜玻璃』とその中の「囈語」にも、世間やその価値観に対する風刺が、寓話のように洗練されたかたちで織り込まれている気がするのだ。