想定を保留すると、見える景色が変わる。
教育の結果は全て予測可能なのでしょうか。
という問いを立てたとして、ほぼ全ての人が”No"と答えると思います。どんな授業をやったとして、その授業を受けた子どもたちが返してくるレスポンスは多種多様、いろんなものがあるはず。
先日ある講演会がありました。それはリフレクションを使っての授業改善を題材としたものでした(だけど今日はリフレクションには触れません。その話するとどんどんどんどん長くなっちゃうから)。
その中で、教育のプロセスは基本的な概念として「意図(目標・ビジョン)」、「過程(方法)」、「帰結(成果)」の3つによって構成がされると言う話題でした。
ある事柄を教える際に、事前の「意図(狙いと言ってもいいかも)」があって、プロセスとしての「過程」を辿り、結果としての「帰結」に向かう、という流れがあるというものでした。それはまさにその通り、事前の想定がある程度あって授業は構成されるものです。
ただ、ここでちょっと引っかかったのは、この事前に”想定された「帰結」以外”の結果を子どもたちがアウトプットした場合、このプロセスだけを拠り所にしているとどう評価するのか、ということです。
ある特定の絶対的な答えがあり、それを身に付けることが目的の授業であれば、まだ問題はないと思います。ただ、対話だったり、グループワークだったり、他者との関わりからアウトプットを出す場合、この事前に想定される「帰結」の通りに行かないことが多数なのではないか、と思ったわけです。
事前の想定は、教える側の人間の思考が及ぶ範囲でしか考えることはできません。例えば1人で授業を作っている場合は、その人の経験値の中からしか、その想定は作り得ないはずなのです。その1人が30名の子どもたちを見ていたとして、その30人が返してくるアウトプットはおそらく想像できる範囲を大きく超えるはず。
このように考えた際に、その想定され得る帰結だけを評価軸とするのは危険な気がします。簡単に言うと、先生が考えた結果よりも良いアウトプットを子どもたちがしてきた際に、それを事前の想定とは違うからといってマイナス評価して良いのか、と言うことです。それで、それは実際に起こっている。
もちろん数名の先生で同じ授業を持ったりする場合に、評価軸を揃えるという目的のために、ルーブリックなどを使って事前の想定を作るのはとても効果的です。
しかし、ルーブリック絶対主義になるのもどうかなと感じます。このルーブリックが概念的な項目で作られていれば、評価する先生側にも裁量の余地がありますが、明確に決めすぎているものも中には見られるためです。
明確な基準を作ることによって、評価のボーダーラインが作られるため、それに沿って判断すればよく、1つ1つのケースに対して悩まなくて済むようになります。しかし、教える側の負荷は減りますが、この発想は子どもたちの個性をないがしろにしているとも言えるのではないでしょうか。
現場で起こることは未知です。
たった1人の経験値だけで想定できるケースなんてたかが知れています。
でも、だからこそ楽しいとも思えるはず。
それが1人1人に向き合うということなんじゃないかなと思います。
事前に予測を立てることも大事ですが、この事前の想定を一旦保留することも同じくらい大事。自戒を込めて。
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