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対話の素地はいつ身につける?

話をする時、話しやすい人、話しづらい人っていますよね?

もちろん個人個人の特性(タイプと言ってもいいですね)によって、これらは要因に上がるのですが、そういう生理的な感じじゃなく、今日は対話に対する”スタンス”がこの話しやすい人話しづらい人に影響しているんじゃなかろうか、というお話です。

話しやすい人の特徴として、話し手のことを見てくれる、適度な相槌をくれる、話を最後まで聞いてくれる、頭ごなしに否定しない…などなどがあげられるのではないでしょうか。
逆に話しにくい人の特徴は、これらを逆にするとほぼ当てはまります。話をしているのに興味を示してくれない、話の途中で自分のことを話し出す、会話を紡ぐ時に出てくるのは、”でも”や、”だけど”といった否定的な接続詞…などなど。書き出すだけでもうんざりしてきますね。

これらがいわゆる、対話の素地というものです。

ワークショップやグループワークの際、度々こんなルールが出現します。皆さんも経験あるのではないでしょうか。

・相手の話は最後まで聞こう
・1人で話しすぎないように
・相手の話は否定しない
・意見をいう際は”Yes,and"の心を大事に

これらはこの場における対話を促すため、この対話へのスタンスをやや強制的にポジティブにしているのです。上記の他にも場を預かるファシリテーターの方の特性や狙いによって様々な表現が用いられますが、基本的に対話に対して肯定的なスタンスとなるようにしているはずです。

これらはある種、限られた場のルールとして機能させますが、本来はこのようなスタンスを普段の会話などでも、いつでもとれるのが(自戒を込めて)大事ですよね。

でも大人であっても、みんながみんな、普段からこのスタンスをとれる訳ではありません。だからと言って放っておいて良いものでもない。授業で行うグループワークを見ていても、このスタンスでワークに取り組める学生は残念ながら多いとは言えません。

社会に出た際に絶対に必要なのにも関わらず、これまで意識してこなかったからか、不思議なことにこういう根本的で基礎的な意識のようなものを教える場はほとんどないのです。例えば、大学であれば、専攻を深めるためには、ただ文献を調べたり、実験を行ったりするだけでなく、他者との対話から自らの考えを深めるため、批判的思考や論理思考と合わせて、この専攻に進む前の、教養教育で扱うべきなのではないでしょうか。

しかし、現状で良い兆しもあります。結果的にこの問題へのアプローチにもなると考えているのですが、間際に迫ってきている大学入試改革のために高校でも対話型の授業がどんどん進んできているし、小学校や中学校にはいわゆるアクティブラーニングの重要性が説かれてから参加型の授業がどんどん実施されています。
一説には今の小学生たちの間では「ワークショップ」や「リフレクション」と言った単語は日常会話で使われるくらいに浸透しつつあるようです。

こうなると大変なのは、これら教育の変革の狭間に位置してしまった、現在の大学生たち。社会に出た際に、妙に対話慣れした後輩たちと付き合うことになります。本人たちだけでなく教員も、この大きな変化に追いつけるように意識して後押しをしていかなくてはなりません。

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