誰もが違っていい

数日前、夫に「やっぱり俺が積極的に主導となって動いてるよね」と言われた。これに関してまず先に言っておくと、悲しみに暮れているわけでも喜んでいるわけでもない。

嫁の私視点でも、生活する中で夫が主導となって動いていることは事実だと思うから。だいたい私も、あれする?これする?と最終決定権というか、エンジンをかける部分は夫にゆだねているところがある。私主観で言えば、一緒に暮らしてる以上、子供もいるし基本人手が欲しいというか、夫がいるならば協力してやりたいと思っているので、「今から一緒にやりませんか?気分はどうですか?」みたいなお伺いを立てている感覚だったりする。

少し略して書くが「俺が動いている」の言葉の裏に「私が動いていない」という意味が含まれているのでは?と少々頭を悩ませた。

こういうことは一人で考えていても、すれ違い的な齟齬を産んだり、そこから一人で空回りしたり、寝る前に思考が止まらなくなったり、そういう事態になりかねないな…と脳内注意報が発令したので、一度その場を離れたが舞い戻り本人に確認してみる。

「一瞬、私が動いていないという嫌味か?という気持ちが先にきたから、「そんなことはない」と反論したくなったけど、実際は違うんじゃないか?と思って事実確認しにきた。」

と真偽を確かめたところ、そういう嫌味のつもりではなかったこと、言ったあとすぐ私の表情を見て言葉選びを間違ったと思ったこと、自分が動く時の決定権というかそういう役割なんだと、ふと認識して出た言葉であったことを説明してくれた。

「逆に、日常を楽しく過ごすためのアイディア、今日で言えばお昼ご飯をお弁当箱に詰めて作ってくれたり、子供達も喜んでたし、そういう部分は俺にはないから、お互いにそういう役割になっているんだって気付きがあった」

とも教えてくれた。

やっぱりそうだったんだな、と思ったと同時に、過去の私なら悲しみに飲み込まれて、心の中は大型台風のように大荒れだっただろうと想像できる。「私だって動いてるもん!!」って(笑)

だけどこの結婚生活の中で、お互いの思うことについて沢山話をしてきて、段々「私とは考え方や捉え方が全然違うんだなあ」といい加減認識するわけで。「だよなぁ…違うもんなぁ…だって夫は自分が本当に崩れてしまうまで頑張っちゃう人だもんなぁ…(心の声)」なんて思ったり。

まあ完全に「あ、この人私とは全然違う人種や。」って理解したのは割とつい最近だったりするのだけど。

個人的に「お互いが違っていい」ということをこれまでの結婚生活で学んだ。相手はこう考えているだろう、という予測を覆す夫と、生まれた時から個性があって泣き方ひとつ全然違う子供達。そして一番はしいたけ占いで有名なしいたけ.さんの影響が大きくて、どちらかというと数年前までの私は「十人十色」という言葉を机上でしか理解していなかったのだと気づかされたし、まだ子供が小さいうちに「誰もが違っていい」ということの理解が進んだことに、少しだけ、安心した。

もしかしたら私の偏見かもしれないけれど、現在の社会は多様性が大事にされてきていても、だからと言って個々が個々のままでいいといった雰囲気になっているわけではないな。と思ってしまうし、教育もどちらかと言えばみんなを型にはめてはみ出た部分は切り落としてきれいにしていこうぜ。みたいな感じがする。

これが良いとか悪いとかそういうことが言いたいのではなくて、過去わたしもそうであったのだけれど、自分の評価が他人に依存している、俗にいう自己肯定感が低い人の場合、そういった型にはめ込む行為で自分の不得意な部分にばかり目が行き、しかも人によってその正しいという答えは違うわけだから、何が正解かわからない、もう私はどうしたらいいのかわからない、といった「負の感情に捕らわれやすくなる」んじゃないのかなあって思う。

だから、子供の自己肯定感を私のように低くしてはならぬ!と思うのです。それには皆が違って当たり前で、「あなたはあなたのままでいいんだよ」という部分をいかに態度で示していくか?が大事で、かといって悪さをしたときに怒らなくていいとかそういうことでもなくて。

いつかは社会に出ていくし、結局人間というのは一人で生きるのはなかなか難しい部分がある。人間が作り上げた社会のシステム、例えば全国世界中で誰かが作った野菜やお肉、商品がスーパーなどのお店に集められそれを購入し、見たこともない誰かの働きがあって安全な水が飲めていて電気がつく…。

人間は孤独になると寿命が縮まるらしいし、物理的に一人で生きていくのも難しい。そんな人間社会で生きていくのだから、最低限のルール(例えば法律)は必要だと思う。

私が今一番頭を悩ませているのは「あなたはあなたのままでいいんだよ」という部分をどう態度や言動で子供に伝えていくか?というところで、これが個人的にはなかなか難しい。

まだまだ試行錯誤していて答えは出ていないのでけれど、例えば子供が叩き合ってけんかした時に「ダメでしょ!!」と言いたくなる気持ちを抑えて、まずは子供同士を離して、本人の「嫌だ」と思った気持ちやそれを相手に伝えたことに共感してあげる。そのあとで、でも叩くのは痛いからダメだと思うよ母は。と伝える。

でもこれ、定型のように毎回やるとか、言葉に心が乗っていないとか、そういう不自然さって子供はちゃんと気づく。そうなると子供は話を聞いてくれなくなる。だから私の場合は本人の目線に立って(物理的にじゃないよ)、感情と事実を分けて考えてみて、まずは感情に寄りそう。そして事実について母なりに思ったこと、その時の対策について話してみたりする。

ただ子供って喧嘩ばかりするけれど、喧嘩だけして生きてるわけでもないので、自己肯定感を低くしてしまう罠ってもっといっぱいあるんじゃないかな?という疑いの目線で日常生活や自分の発言を見ているところがあります。(笑)


子供で思い出したのだけれど、昨年の11月に第四子が生まれた。年子4人を育てるのはそこそこに骨が折れる。

この田舎の車社会で運転免許を持っていない私は、運転できる夫が不在の時に、子供に「公園に行きたい!」と言われれば、期待に応えるべくようやく首が座った息子をおんぶし、娘を抱っこし、お兄ちゃん2人を両手に公園を目指し遊ぶわけで、1歳11か月の娘も「歩いていきたい!」となれば、「歩道ない道もあるし車に気をつけなきゃ…」とか、神経をすり減らす機会も増えるわけで。

だけど我が子というものは大変可愛いもので、求めることをやってあげたい親の性かな…。 

初めてのこと、例えば第一子の就学だとか、子供4人になった場合の外出方法は?とか、そういう新しいことにはてんやわんやするけれど、毎年0歳のお世話をしながら魔の2歳児前後を相手して…とやっているとさすがに慣れてきて。たとえて言うならば、ミルクの粉はきっちりすり切りにして、えーと粉は何杯?お湯の量は?お湯の温度は?これでいいの?ちゃんと成長してる?といったことに悩まなくなった分リソースが空いて余裕ができた感覚。

だから、「新生児ならではの部分しか見えない」みたいに、その年齢特有の可愛さとか、この子は今何を感じてるのか?とか、「あ、今何か考えてるな」「考えて我慢したな」とか、いままで見る余裕がなかったらしい部分が見えるようになった。

だからこそ見えてきた部分をしっかりと見て、頑張った部分を褒めたり、人を傷つけるようなやってはいけないことを叱ったり、感情と事実という部分をわけて性格も考え方もそれぞれ違う家族に向き合っていかなきゃいけないな、と考える今日この頃。


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