多様性と「めざす児童像」②

前回の記事はこちら(多様性と「めざす児童像①」)

多数派の定型発達と、少数派の非定型発達は、そもそも脳の使い方が違う。
持って生まれた、ものの感じ方が真逆の事も少なくない。

それを多数派が暮らす尺度を「常識」と捉え、少数派に諭そうというのは、四足歩行の動物に、この世界は二足歩行だから、二足歩行で(しかも美しく)歩けるように工夫していこう!と勇気づけるようなものである。

四足歩行の動物にとっては、四足で立つことが自然なことなのに、「まずは頑張って二本足で立てるように頑張ってみよう。」と、(合理的配慮をしながらでも)できるだけそちら側に合わせることを良しとする。
なんとか頑張って挑戦し成功すると、「ほらね!やればできる!じゃあこれからは四足歩行はしないように。その綺麗な姿勢をキープすることを約束してくれる?」と無理難題を提案してくる。
そして、それがトレーニングや慣れで二足歩行に進化すると思っている人がいる事が恐ろしい。つい四足歩行をしてしまうと、「約束したのに守れていない」と注意を受けてしまう。
生物学上の構造は一切無視である。

あくまで「めざす児童像」は二足歩行で美しく歩く事なのだ。

発達障害は、身体的にわかりにくいので、つい努力が足りないと思われてしまうことが多い。
がしかし、実際は神経の伝達の仕方に特性があり、例えば姿勢保持が苦手な子にとって、世間の考える美しい姿勢を保つことは、つま先立ちで立ち続ける程体力を消耗するような事なのだ。

現にうちの子供は常に動いている。
「お話を聞く時はじっとしましょう」と言われても動いてしまう。本人はじっとすることに意識を向けている。だが動いてしまう。
常に椅子がゆらゆら、そうでない時は足がブラブラだ。動かしていないと体のバランスが取れない。
じっとすると、じっとする事に意識が持っていかれ、逆に話が入ってこなくなる。そして、動いているより疲れてしまう。

又、衝動性の高さから、気になった事があると、ついすぐに質問してしまったり、感想を述べてしまったりする。しかし、「今は聞く時間」と制止されたり、なんとなく無視されたりしてしまう事もある。
本人としては自然に振舞っているだけ。目の前の課題に興味があるがゆえ。
でもそれは、多数派の感じ方に一致しない。なので、間違った事として注意されてしまい、受け入れられない寂しさを味わう事もある。

もう1つ、「人の話を聞く時は目を見ましょう」。これも難しいとよく聞く。目を見ることに集中すると、エネルギーがそこに集中するため、聞く機能が低下する。又、時には他のこと(例えば瞬きの回数や表情の癖)が気になりだし、内容理解が中途半端なものとなる。

誰だって、気になることが他にあれば、本来集中すべき対象がおそろかになるが、非定型発達は、定型発達のそれに準じて行動を期待されると、制限が生まれ、十分なパフォーマンスが発揮できなくなるのである。
方法が違うのだ。

そういう意味で学校という環境は少数派にとって、とても酷なものなのだ。例えそれが支援級で、身近な人に理解があっても、根本的な学校のスタンスが変わらない限り、酷な環境なのだ。
だってみんな自然にやれちゃってるんだもの。
歩くのが早い遅い、足が長い短いの違いはあっても二足歩行が基本でしょう?

私の子どもはとても繊細だ。そして先程も触れたように、多動もあり衝動性も高い。不安な場面ではその傾向がさらに強くなり、協調性が無い=人の気持ちに鈍感だと評価されがちである。

当然「めざす児童像」からは程遠い。

では、人間性が優れていないのか?考え方や感じ方に問題があるのか?
決してそうではないと断言出来る。子どもと向き合ってたった7年ちょっとだが、子どもの心の機微には驚く程の広がりがある事を私は知っている。神経の伝達の方法が独特な為、一般的には理解できない領域があるだけである。そしてそれは努力では得られない、とても豊かなものであり、今後文明が発達していく上でとても鍵になってくる感覚だと思う。

こんな事を言うと、人に迷惑かけているのに開き直っていると思う人もいるかもしれない。
しかし、そうではない。誰もがそれぞれの強みを活かし合い、共に発展する為に、1つの視点を提示しているに過ぎない。

★③へつづく★


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