多様性と「めざす児童像」④

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多様性と「めざす児童像」① 

多様性と「めざす児童像」②

多様性と「めざす児童像」③

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「めざす児童像」は全ての人に当てはまるわけではないのに、あたかも世間の美学のように声高らかに学校は訴えかけてくる。

似た価値観の人間が集まり、同じ目標に向かっているサークルの様な組織であればアリなのかもしれない。合わなければ他に行けば良いだけの話だ。
だけど、学校はそうはいかない。
一旦その場に入ると適応するしかないのだ。

そして、親も、協調しないと将来苦労してしまうのではないかと、一生懸命に躾けようとしてしまう。励まそうとしてしまう。
その瞬間の苦しみが将来的な認知の歪みに繋がるかもしれない事に考えが及ばないまま、ムキになってしまったりする。私も日々反省だ。

障害の有無に関わらず、どの子も多少なりとも苦手分野があり、妥協しながらその社会に合わせている。
その結果、〇〇すべきという考えが生まれる。
頑張っているが故の皮肉である。
〇〇したいではなく、〇〇すべき。

そして、社会に合わせていく内に、自分が本当にしたいことを見失いがちになる。
本末転倒、矛盾だらけである。

結局は、最大限に努力し、その場に合わせ、個性を主張していいのはそれからという話だ。
その最大限はたいていの場合、定型発達の人達が考えるボリュームであり、与える側はそこに到達する事を期待してしまっているが、非定型発達の人達のそれは考える以上に敏感で単純に語れるものではない。

先生方は過去に自分たちが子どもだった時代に、当時の教師から評価された内容から理想像を築き上げてきており、それを無意識に子どもに伝えようとする。しかし今の先生たちを教育していたのは、一昔前の世代の教師たちで、その考え方は今の時代に合っていない。

つまり今の学校教育は2世代前の教育の価値観が潜在的に根深く主導権を握っている事になる。それはきっといつの時代も変わらず、常に社会の流れと、微妙な価値観のズレを生んでいるような気がする。

インクルーシブ教育という言葉だけが独り歩きし、本質的な現状は、まだまだ30年前とさほど変わっていない。

次の世代の人間を育てる為の学校の考え方が時代遅れだなんて、全く皮肉な話である。温故知新とも言えるが、変化する為にはなかなか時間がかかるものだ。

インクルーシブ教育は、それぞれの自分を認められる土台があって始めて機能するものだと感じる。
調和のある社会にする為には、まず人に合わせていく社会ではなく、自己を受容し、自分自身の気持ちを大切し、それを実行できる環境があってこそだと思う。

そうすれば、〇〇すべき、のような考えは薄くなり、潜在的な価値観の押し付けも当たり前に無くなるのでは無いだろうか。
インクルーシブ教育など、わざわざ訴えなくても自然に助け合える調和の取れた優しい社会になるのではないだろうか。

そういう意味で、「めざす児童像」という概念はやっかいである。

児童像はどこかに向けて目指すものでは無い。
それぞれの形があっていい。


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