多様性と「めざす児童像」③

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多様性と「めざす児童像」① 

多様性と「めざす児童像」②


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インクルーシブ教育に私は賛成だ。
多様な人たちが当たり前に関われる環境は、これからの新しい地球にとって必要不可欠な要素であり、私はとても希望を持っている。

しかし、教育の現場を見る限り、
本当の意味でのインクルーシブ教育は夢のまた夢だ。

そもそも、「皆で大きな声で元気にあいさつ」
「休み時間は皆で仲良く元気に外で遊ぼう」等と目標を掲げてる限り、
インクルーシブ教育は少数派を追い詰めるだけのシステムである。

まず、「大きな声で元気にあいさつ」については、例えば場面緘黙の子はどうだろう。
周りは容認していても、出来ない本人にとっては苦しいはずだ。
場面緘黙とまではいかなくても、挨拶自体に魅力を感じない価値観を持っている場合もある。
それがいけないことなのだろうか?社会性が無いことに直結するのだろうか?
自閉傾向がある人は、単にコミュニケーションの入口が挨拶ではない場合もある。そういう意味でも、挨拶に対し、多数派が感じるほどの魅力を感じなかったり、突然の降り掛かってくる「おはよう!」という大きな声に驚いてしまい、苦手意識がある人も少なくないように思う。
それなのに、挨拶を強要される環境は拷問に近い。さらに、それが通知表の評価基準になってしまっている。最悪だ。

「休み時間は外で皆と仲良く元気に遊ぼう」はどうだろう。過ごし方を指定されている時点でそれはもう休み時間ではない。
1人で過ごしたい人もいれば、体を動かすことに苦手意識がある子もいる。休み時間に自由帳に絵を描くことを楽しみに通学してる子だっているだろう。

皆と仲良く外遊びすれば、健康的だから全ての人に適用するべきだとでも言いたいのだろうか。やりたい事が出来ない休み時間は明らかに健全ではない。体と心が鍛えられるどころか、全く健康的ではない。謎の仲間意識だ。

これらの同調圧力がある限り、インクルーシブ教育は一方的な理想論であると感じるのは私だけだろうか。

★④(最終回)へつづく★


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