生きる資格がない私に起きている弊害
今週の末にカウンセリング,来週の水曜日に精神科の予約がはいっている。
具体的に何をするかとか、どんな治療法がなされるかなんてわからないけど、自分のことを話さなければならないことだけはわかる。だから、当日自分が何を話さなければいけないのかをまとめておく必要がある。それを書く。
まず一番私にとって重大(?)なことは、私自身に生きる資格はないということだ。
私自身に生きる意味がないから、何をやっても集中できない。何をやっても後悔する。人と話していても、いらない私という人間に時間を割いてもらうことが申し訳なさ過ぎて、コミュニケーションができない。言葉が出なくなる。もう辞めたが、バイト中も注意を受けたり、業務内容を説明されるだけで「ごめんなさい」「ごめんなさい」とばかり唱えていた。
なぜ生きる資格がないと私は考えるのだろうか。
・人とのコミュニケーションをとることができない
・協調性がない
・所属したものをやめてしまう
・仕事ができない
・考えることができない(応用力がない)
・人の役に立ったことがない
・見た目が悪い。体重が重すぎる
・毎日を無駄に過ごしている
一つ一つに言及したいことがあるが、とりあえず私は上記のような人間だ。全く人の役に立たないし、別に誰に必要とされているわけでもない。この休みの期間は、本当にただ生きているだけなので、1秒後に私が消えても全く問題のない人生を生きてきた。
私には生きる資格がないと気づいてから、生きるのにいくつかのうまく立ち行かないことがある。
・お金を使えない
→私は大学生だ。大学の学費はべらぼうに高い。それなのに私の家族は受験で合格した私のためにお金をだしてくれている。そのことが申し訳ないのと、自分にはお金をかける価値がないと思っているので、意識的にお金が使えないのだ。
例えば、勉強していて図書館に籠っているときとか、大学に行って一人でお昼ごはんを買うとき。300円を超えると申し訳なさで死にたくなる。250円くらいで収めるのが私の中の理想なのだが、コンビニの食べものはどれも高い。(家には外に持っていける食べるものがない)パン2個とか、おにぎり2個とかで抑えるようにしている。はっきり言ってたりないので昼ごはんの時間を遅めにすることで、空腹の時間が少なくなるようにコントロールしている。
別に250円で昼食を済ませろなんて、誰にも言われたことない。というかこのことを言うと、多分怒られる。しっかり飯を食えと常に言われているから。
でも違うのだ。私が私を許さない。300円を超えると高いし、そんなお金を使うのがもったいないと、私が怒るのだ。なんて無駄遣いをしているんだ、と。
でも、家族でフードコートに行ったときや友達とご飯を食べにいったときなど、この性格は本当に困る。家族でフードコートに行くときは、もちろん自分が自分の食べるものを選ばなければならない。でも、さすがに250円で収まる物はない。600円くらい?700円くらい?800円くらい?でもあまりに少ないと腹が膨れない。選択肢が膨大過ぎて、何が食べたいかもわからない。
呆然と広く、ざわざわと騒がしいフードコートの中で、私は自分が何を食べたいのか全くわからず、自分がいくらの価格帯のものを食べていいのかわからず、家族が食べ終わってからやっと自分の食べるメニューを決められたことがある。
同じようなことは、大学受験生のころもあった。塾に籠っているとき、お昼ごはんに自分が何を食べていいのかわからず、デイリーヤマザキの中で立ち尽くして、昼飯一つ買うのに30分以上かかったことがある。
ぱっと物を決めて、もしくは自分が本当に食べたいものを食べればいいのに、お金がかかるのが怖くて、決められないのだ。サンドイッチが本当は食べたいのに、330円するから買えない。財布には1万円札がはいっているのに。自分でもなにがなんだかわからない。
友達とご飯を食べるときは、もちろん250円で一食を済ませられるわけがない。ここでも自分がいくら使っていいかわからず、軽くパニックになる。だけどそんなことを悟られるわけにはいかないので、友達が選んだご飯の価格帯を選ぶことにする。
これは自分の性格なんだか、精神的なもんなのかよくわからないが、大変困る。食べたいものを昼に食べたいし、実際時間がかかって仕方がない。だが、どうしてもお金を使えない。自分が食べたいものを選んだからなんだというのだ。どうせ15分で食事なんて終わってしまう。そもそも、お金がかかる学生であるだけで負担なのに、食べたいものにまでどうしてお金を使っていいのか、という考えが抜けないのだ。
同じ理由で、服も満足に変えない。欲しい服があっても、必ず値札を見てやめる。自分の服に4000円もかけられない。2900円も無理だ。
・勉強がつらい
自分が今やっている勉強の意味がわからなくなる。
「どうせこんなことやっても意味がない」
という気持ちがでかすぎて、どんな勉強にも集中ができない。
資格の勉強をしていても、「どうせ資格をとったって、ガクチカに使えないんだから意味がない」と考えると途端に集中ができなくなる。
就活で資格が生きてくるのは、その資格を取ろうと思った理由、合格までの過程、なにが得られたのかが大事だそうだ。なんにもない。新しいことを学ぶのが好きだから挑戦した。図書館に1日中籠って勉強したから合格した。得られたものは合格証だけ。全くガクチカにンなんかならない。私のエピソードなんて、他の人のサークルでがんばったことに埋もれていく。私がとった資格に価値はない。
じゃあこの資格と、資格にかけた勉強時間はなんだったのだ?
休みの期間中していた勉強は、一体何の意味があったのだ?
一応形に残る資格でさえそうなのだから、自習なんてもっと集中できない。
私は思想とか、中世の文化とか、精神的な学問が好きだ。学部は法学部で、法学の勉強は自分の性格にしっくりくるし、学んでおいて損はないものなので好きだが、休みの期間中は、そういう自分の学部じゃない勉強をしたかった。
だけど、そんなことやっても意味はない。将来に続かない。なんでそんな教科書を読んでいるのだ。という考えがぐるぐるぐるぐると頭を巡って、本を読む手をやめてしまう。同じ理由で、読書の時間も苦痛だ。小説を読むことは大好きなはずなのに、最近読書の時間に罪悪感を覚える。
もっと他にやるべきことがあるのではないか。もっとしなければならないことがあるのではないか。勉強がしたいのに、勉強をやってていいのかがわからない。自分が今勉強している資格を、高い受験料を払って受ける意味は?
そんなことを延々と考えてしまって、なにも手をつけられなくなってしまった。
なにか始めると、「そんなことやっている暇があるの?」と考えてしまって、なにもできない。
今日も、検定の受験とボクシングをやってきた。
検定は、特に持っていて有利になると聞いたことのあるものでもない。ただその内容が勉強したくて、1月の私が申し込んだ奴だ。ボクシングは興味があったのと、運動不足解消のためだ。
どちらもやりたくてやったことだ。勉強になったし、検定は3級が受かったら2級に挑戦したい。ボクシングは汗だくになったが、すっごくきつくて充実感があった。これを続ければ、少しは痩せられるかもしれないという希望もある。
でも帰ったら、死にたいという気持ちに沈められている。
「なんで意味のない検定に受講料を払って、しかも勉強にそれなりの時間もかけて受けたんだ」
「ボクシングの会員費がもったいない。というか、ボクシングをやってなんになる。そんなことやっていていいのか?」
意味がないことにお金と時間をかけてしまった後悔。焦燥。罪悪感。交通費までお金をかけたことに、生きる資格のない私がなんて贅沢しているんだという悔恨の重量感で、お風呂にはいって一人になったときに、ありえないような鬱状態に襲われた。
ごめんなさい。お金を使ってごめんなさい。時間を無駄にしてしまった。どうしよう。
死にたい。
死ななければならない。
1秒後にでも消えてしまいたくなった。なんなら今も死にたい。
この前カウンセリングに行ったら、気持ちの上下が激しいから、と精神科の受診を勧められた。
これは精神のせいなのか?なにをするにも申し訳なくて、なにをやっても意味がないように、生きる資格のない私がやってはいけないように思えることは、病気だからなのか?自分のやりたいことをやれるようになるのか?食べたいものを選択できるようになるのか?わからない。
仕事ができない。人とコミュニケーションがとれない。こんな、生きる資格が全くない私は、自分のやりたいことを好き勝手やっていいわけない。でもかといって、他にやることもない。私は今何をしているのが正解なのか?
なにをしていても焦りと不安と罪悪感が抜けない。自分が今何をすべきが正解かわからない。煩わしい、不安があまりに大きい。こんなことで悩みたくない。なにをしても空虚で、なにをしていても不安だ。
こんな私に生きる意味なんてない。弊害なんかじゃない。そもそも私は生きているべきじゃないんだから、弊害という言葉さえ間違っている。
私は死ぬべき人間だ。
早く死にたい。
でもまだ生きている。なんてわがままなんだ。
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