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山小屋物語 12話 師匠とキャベツの千切り

山小屋には師匠と呼ばれる男性がいた。もうおじいちゃんと言ってもいいくらいの歳だった。

山の案内人であり、狩りの名手でもあり、塵の焼却をし、調理のプロでもあった(信じられないくらい多才なのだ!)。様々な場面で師匠の知恵を借りて、我々は標高三千メートルでの生活を営んでいた。

とりわけ厨房で師匠の存在感は、際立っていた。なにがどう凄いって、まずその独特の愛らしさで、女子の世界のギスギスをあっというまに解してしまうのだ。次にやはり、調理の技が凄かった。触れれば切れるほど研ぎ澄まされたマイ包丁を懐から出してきて、馬刺からキャベツまで、あらゆるものをこれ以上無いくらいに美しく切ってしまう。私がキャベツの千切りを出来るようになったのも、師匠が教えてくれたおかげだった。

新厨房(※1)で、師匠と女の子二人だけになる日がたまーにあった。女子同士のドロドロの厨房から離れられて、なんとなく嬉しいものだった。(例え仲が良くても、24時間一緒というのはやはり気を張るものだ。)

※1新厨房・・・いつもの厨房から少しはなれたところにある、米炊き場。新厨房当番の女の子が一人或いは二人で、朝から晩まで米を炊きまくり、釜飯を湯煎しまくる。時々師匠と組むこともある。

ある日わたしは新厨房にいた。釜飯機に火を入れ、床に這いつくばって着火を確認してから、よっこらしょと顔を上げた。すると窓の外の、丁度目の高さくらいのところに、ヘリコプターがホバリングしていた。「おお、こんな近くにヘリ。めずらしいですね」と呟くと、横にいた師匠が言った。「あれはね、遭難者を探してるのよ。寝袋がぶら下がっていたら、ダメだった(=遺体がそこに下がってる)ってことずら」。そのヘリにはなにもぶら下がってなかったので、ホッとした。今から捜索だったのかもしれないけどね。そしてそれよりも、甲斐弁?駿河弁というのかしら?「ずら」の語尾が最高に可愛い・・・と、失礼ながら思っていた。ちなみにその頃厨房には博多出身の美人、保奈美ちゃんがいて、「なにしとぅとー?」「ゆうかっちゃ、どこいくん?」と、天然のラムちゃんぶりを発揮していて、師匠の「~ずら」と、方言人気を二分していた。山小屋の奥さんは全国津々浦々から働きに来る皆のなまりっぷりを聞いては、目を細めて「方言っていいわねぇ~」とにこにこしていた。

またあるとき、何をやっても失敗続きで嫌になっていた日に、私はたまたま新厨房で師匠と二人になった。
釜飯機の熱湯から、金網に入れた大量の釜飯を引き上げ、ツアーごとに数を分けて箱詰めしていた。
数えていてはたと気付く。
私「げ・・・1ツアー分多い・・・(^_^ゞ」
師匠「何個多いのよ?」
私「42人のツアーを二回数えてしまっていたから、一人釜飯2個×42人で84個余るぅ・・・」
師匠「あらあら」
私「ごめんなさい。無駄になってしまった。奥さんに報告してきます・・・(めっちゃ重い足取り)」
新厨房のフローリングの床をひたひた歩きながら、はたと、振り向いた。
私「師匠!!!」
師匠「なによ、あっこちゃん。びっくりするじゃない」
私「私みたいな馬鹿な間違いする人って、なかなかいませんよね?皆もっとミスなく、まともに仕事してますよね?!?!(泣きそう)」

師匠「はっはぁーん・・・いや、みんなこんなもんよ笑」

私「マジで?」

師匠「皆、ミスするわよーん。あたしがフォローしてやってんの♪」

私(泣く)

その日は、奥さんには怒られこそしないものの呆れられ、先輩には元ヤンキーの目線で『二度とこんな馬鹿な間違いしないでください』と、反省会でシメられた。

仕事は仕事なので、出来るようにならなくては話にならないのだけれど、おっちょこちょいや、慢心で、自分は人より皆の足を引っ張ってるなぁと思うことが多々ある。若い先輩は厳しく注意してくれる。そして師匠は、その衝撃を可能な限り緩衝して、弱い私たちが思い詰めないように、笑顔で1日を終われるようにしてくれていたように思う。

富士山一年目の夏、下山したその足で私が一番にしたことはなにか。渋谷のバスターミナル近くにある八百屋でキャベツを一玉買い、勇み足で三宿の実家に帰宅した。「えっへん技のおみやげだよ」と言いながら、親にキャベツの千切りを披露しようとしたのである。ところがあまり細く切れなかった。

うーん、なぜだろう。
たぶん山の厨房の包丁は、師匠が一本残らずピッカピカに研いでくれていたのだ。
19歳の私がそれに気付くのに2年ほどかかった。

今でも、よく切れる包丁を手にすると、訳もなくキャベツの千切りをしたくなる。

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