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2022/05/28“生きることの問い”

今週の火曜日のできごと
利用者さんから私への拒否があった
そのことに対してチーフから
「◯◯さん(患者さん)と◯◯さん(ケアマネさん)は、私(チーフ)に来てもらいたいって言ってるけど、◯◯(おおしま)は本当にできていると思うし、◯◯(おおしま)の努力が水の泡になってしまうのは嫌なのね。◯◯さん(患者さん)だけ特別扱いするわけにいかないから、訪問してほしい。◯◯(おおしま)が毎週訪問して、私(チーフ)が月に1回、訪問に同行する形でどうかな。そうしたい。」と言われた。

おこちゃまで反応的なわたしは、なんとなく嫌って感じ、「嫌だ。行きたくない。考えておく。」と答えた。この時の心情は、なんでこの人はこんなに上からものを言ってくるんだろう…。私のことなんにも知らないのに、なんでうわべだけの褒め方してくるんだろう…。私そんな言葉望んでないし。患者さんが嫌だっていってるのに、なんで無理していかなきゃいけないんだろう。お金払ってまで、嫌いな奴に来てもらいたいか??って思ってた。
そんなことがあり、昨日はさぼった。

そんな、おさぼりの最中、とある文章に出逢った

 ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほからならない。

夜と霧 新版 ヴィクトール・E・フランクル 池田香代子訳


この文章を読んで、あぁ、わたしはただ逃げていたな、嫌なことから目を背けていたなって思った。
この状況で、わたしは、正しい答えを出す義務があったのに、なんとなくの嫌だで片付けていたなって。
では、わたしはこの問題にどう立ち向かおうか。

まず、なぜ、患者さんとケアマネさんはチーフにきてほしいと言っているのか。わたしの直すべき点はどこなのかを聞いたり考えたりする。それは、直して解決するものなのか、直したところで、もう関係修復には至らないのか。患者さんとケアマネさんが本当に求めていることは何かを見極めることが大事だなって思った。それを、踏まえて、訪問したいかしたくないか、するべきかしないべきかを考え、答えを伝える。
これが、わたしが今考えられる、今のわたしにとっては、正しい選択なのかなって思う。

トータルして、さぼったことは、良い選択だったかなって。さぼらず、なんとなく嫌だ嫌だのまま訪問していたら、さらに状況悪くしていたと思うし、この考えや捉え方、視点の変え方には出逢えなかったかもしれない。


生きているうえで、目の前に立ちはだかる、問いに対して、自分がどう立ち向かうか、正しいと思う答えを導き出すのか。

生きているだけで、日々、選択の連続で、問いだらけ。

“生きていることに意味がある”

その通りだなって。

この会社に入って、看護としての技術や知識は身についたかどうか分からんが、たくさんの場面に出逢うことができ、色んな感情を味わうことができた。時には、正しい選択ではない選択をしてしまったこともある。苦しさの渦にいたときもある。
ただ、こういう問いとの出逢いや、生きるということは生きることの問いに正しく答えるという義務ということを学べたのは、この会社にいたからだ。心から感謝している。


人生から問われている問いに、正しいと思う選択をし、選択による結果に対し、責任を全うする。

これからもたくさんの問いと出逢いたい。

精神的な気づきとか変化、成長って、すっごく楽しいし嬉しい。


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