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対等に接するということ
久しぶりに教育・子育てについて書いていきます。
先に言っておきますが、個人的な考えですので気に入った人は参考にしてください。
「叱る」ことと「怒る」こと
教員という仕事に限らず、子どもに教育的に接しようと思う時には計画性やねらいが重要です。
今学んでいることは子どもに何を身につけてほしいのか、大人が明確にしておかなくてはなりません。
だから、「叱る」ことはあっても、「怒って」はいけないのです。
叱るときは、何がいけないのか理路整然と子どもにわかるように、
罰を与えるにしてもそれが子どもにとってどんな効果があるのか、後のフォローをどうするのか
これらをよく考えた上で叱り、感情的に怒ることはあってはならない。
と大学の教職課程でも習いましたし、その通りだと思います。
でも、ぼくはこれちょっと苦手です。
叱る側の意見としてではなく、叱られる側の意見として。
大人は子どもの気持ちを忘れる?
どういうことかというと、こんなに先回りしてくる大人って嫌じゃないですか?
自分は面白いと思ってやっただけなのに、
「ほらやっぱり失敗したじゃない」
「言った通りでしょ」
と言われているような感じがします。
同じような理由で、
なんでも
「やってみな」
「やってみればいいじゃん」
と言う大人も苦手でした。
新しいことが不安だからやらないと言ったのに、「やってみな」「やってみればいいじゃん」は解決になっていません。
できるかできないかを、さも知っているような口ぶりでやらせて
後ろから見られているのってなんだかすごく緊張したからです。
きっと悪意はないと思います。
というより、どちらとても教育的だと思います。
ただ、考えてほしいのは同じぐらいの年齢の人に対して、
間違っているなと感じたり、嫌なことをされたりして、理路整然とわからせようとするでしょうか。少し気を使いませんか?正論をグッと飲み込むことありませんか?
新しいことに不安になっている友達に「やってみな」「やってみればいいじゃん」と言って真後ろでみているだけのようなことをするでしょうか。
そう考えるとどちらも「上から下へ」という感じがしませんか?
どうするべきか
ぼくも子どもを叱りますし、「やってごらん」もいいます。
ただ、嫌なことをされたら、怒っている感情も伝えます。
「君のために言っている」だけでなく、「ぼくはすごく嫌だった」ことを伝えます。
そう考えると叱る場面と怒る場面って違いますよね。
教育的に接するならば、「怒る」だけはだめですよ。
大人の感情だけを子どもにぶつけるのは重すぎます。
それは忘れないでください。
でも、「やってごらん」と言う場面も友達からの相談と思えば、
「○○ができるんだからこれもできると思うよ。」
「どうしてやりたくないの?」
「困ったら言って」
のような具体的な言葉がつきますよね。
人として接すること
教育的に接することは大事ですが、いつも教育的である必要はありません。
学校の先生たちだって仕事だからできるんです。
四六時中だと疲れてしまいます。
ぼくはよく教育をジグソーパズルによく例えます。
子どもがパズルをしている後ろで、大人として親としてどう接するべきか考えてみてほしいです。
「そのピースはここ!それは逆!」なんて言われたらつまらないですよね。
反対にずーっと黙って後ろで見られていても嫌ですよね。
子どもに対してイラッとした時は、「嫌だったよ」と伝えてたまには「怒って」みたらどうでしょうか。
もしかしたら、子どもにとっても、大人にとっても対等であると認識できるきっかかけになるかも。