知的でおしゃれと思われそうな文学作品のタイトルの使い方
フェイスブックの歴史を描いたビジネス書より。
黎明期にフェイスブックが雇おうとした人事のベテランが、この会社について友人にこぼした言葉だ。
当時ハタチそこそこのザッカーバーグを筆頭に、まだ二十代の悪ガキが集まったような会社を、ゴールディングの『蠅の王』にたとえたのだ。
読んだことがなくても『蠅の王』が「『十五少年漂流記』のアンチパロディ」だということを知っている人は多いだろう。
イメージがパッと伝わって、比喩として使えるタイトルってすごい。それだけ人口に膾炙しているということだし、使う側としては知的なセンスも問われる。
日本だとよく聞くのは、「真相は『藪の中』」(芥川龍之介)だ。これはもう陳腐ですらある。
今は聞かないが、「斜陽族」(太宰治)、「太陽族」(石原慎太郎)なんて言葉もかつては流行語になったと聞く。
オーウェルの『1984年』は全体主義を批判するときによく引き合いに出されるし、カフカの『城』や『審判』は理不尽な状況をひとことで言い表す時に使われる。
私が最近使った例をあげると、認知症が始まったのかというくらい仕事でミスが増えて不安なことについて、「アルジャーノン状態」(ダニエル・キイス)と言ったらウケた。わかってくれる人が周囲にいることが前提だし、ミスを帳消しにできるわけではないが、ちょっとした潤滑油にはなる。
現代文学作品で、そういった使い方ができそうなものってあるだろうか。
例えばお祭りで射的をしている女の子のそばで「同志少女よ敵を討て」と言ったら、ウケるだろうか。
通報されそうな気がする。
スーパーの閉店セールに並んでいる女子高生に「成瀬は天下を取りにいく」とささやいたら、ウケるだろうか。
通報されそうな気がする。
友人の新居に招かれて「変な家」と言ったらウケるだろうか。
やめとけ。