「考えた」と「考えさせられた」について考えてみた【日本語】考えさせられた。
昔大学のゼミで、ある詩について「印象深い」というフレーズを使ったら、教授から「便利だが、何も言っていないのと同じだ」と言われた。
それ以来、気をつけて使わないようにしている。
似た言葉に「考えさせられた。」がある。
最近読んだ三宅香帆『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない 自分の言葉でつくるオタク文章術』では、「考えさせられた」は「やばい」とともに、思考停止をもたらす禁句とされている。
それでもこの言い回しをみんな使いたがるのはなぜなのか。
「普段何も考えようとしないこの私を考えさせてくれたくらいこの本はすごい」という意味だろうか。
たぶん違う。
「普段から森羅万象についてとことん考え倒しているこの私に、さらにまだ考える対象があることを教えてくれたこの本を褒めてつかわそう」という意味だろうか。
これもたぶん違う。
逆から考えてみよう。
なぜ「いろいろ考えた」と言わないのか。
たぶん、「で?」とつっこまれるからではないか。「なにを考えたの?」と。
「考えた」は宣言だ。主張だ。
椎名誠『インドでわしも考えた』には、たぶん著者がインドで考えたことが書かれている。
高橋由佳利『トルコで私も考えた』には、たぶん著者がトルコで考えたことが描かれている。
しつこいようだが、3つが座りがいいので続けさせてもらうが、円城塔『読書で離婚を考えた』には、たぶん著者が離婚について考えたことが書かれている。
一方、「考えさせられた」というフレーズを含むタイトルには以下のものがある。
オリーブ・オルカ『【離婚の真実】新しい門出?人生のどん底?: 人生における離婚の意味を考えさせられた実体験とは?【離婚】』
瀬戸口寛幸『考えさせられた一言思い知らされた一言』
横山総三『失われた日本の心: ある外国人との対話を通じて考えさせられたこと』
いずれも、「考えさせられた実体験」「考えさせられた一言」「考えさせられたこと」が書かれていますよ、ということが明記されている。
しかし世にあふれる、「考えさせられた。」には、「何が」がない。文末に書かれることが多い。
「で?」という問い掛けを想定していない。むしろ「聞くなよ」「空気読めよ」という意図を、こちらが読まなければならない。
すなわち「考えさせられた。」とは、主張ではない。感慨であり、独り言なのだ。
もちろんつっこむのはご法度である。
すみませんでした。