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ロジカルvs理屈っぽい

さて、「理屈っぽい」と「ロジカル、論理的である」の境界線ってどこにあると思われますか?
ある意味私にとって鬼門でもあったこのテーマ。それを取り扱ったブログを見つけてしまったので、書かずにいられなくなりました。😅
なぜ鬼門であったか。。それは私の少年時代の経験と最近の家族とのやりとりに起因します。

【先日の出来事】

昨日の朝の出来事です。
妻「最近胃腸が弱ってるから、腸内環境遠整えないと。食生活で免疫細胞も活性化しないとね。メンタルにも関係するしね。」
私「そうだね。因みに、腸内環境と色々な健康状態って相関はあるけど、因果関係ははっきりとわかってないらしいよ。菌叢(きんそう:細菌の分布状態)が改善するような環境を整えてあげることで、善玉菌が増えて健康が改善するケースもあるし、逆に強制的に善玉菌を注入してやることで、善玉菌が増えやすい環境ができて、菌叢が改善して、それで健康が改善するケースもあるらしいし。」
妻「で、何が言いたいの?なんか理屈っぽくて、説教じみててイラッとする。💢」
昨日の夜は「愛妻の日だから、みんなに何かデザート買って来て」(関係ないやん。。。)という子供たちのリクエストで、イチゴ大福をデザートに買って帰ったのですが、その時の家族の会話はこんな感じでした。
二女「お父さんって、“要する”にの後が長いよね〜。」
妻「わかるわかる!めっちゃ長くて理屈っぽくてイラッ💢とする事ある〜!」
長女「NoteやLinkedInの文章、わかりやすいけど、なんか理屈っぽいよねー。」
妻「そうそう!抽象的すぎてたまに理解不能でイラッ💢とする事ある〜!」
自称愛妻家の私ですが、結構凹みました。。。😭
そしてなにより「理屈っぽい」の連発。これが私の少年時代の苦い思い出を呼び起こしました。。。

【理屈っぽかった少年時代】

(私はもう過去形だと思っていたのですが。。。) 小学生の頃からよく理屈っぽい、と言われました。何か失敗した時に、自分では原因を分析して説明しているつもりが、言い訳じみていたからだと認識していますが。。。
兄には「理屈たれ」というあだ名をつけられて、結構傷つきました。😅
ここでの“たれ”は、「こうあれ」という意味ではなく、私が子供の頃に放送されていた志垣太郎さん主演の「あかんたれ」というドラマのタイトルをもじってつけたあだ名でした。

【理屈っぽかった理由】

さて、私がどんなふうに理屈っぽかったのか。私が覚えているエピソードは、スポーツに関してでした。
身長は人より大きい一方で、敏捷性に欠けていた私は、友人とサッカーで遊んでしていてもトラップやキックでのミスがめちゃくちゃ多い(つまり下手)でした。下手なりに頭で考えて、こうしたらうまくできるかな?と思うのですが、うまくいかず。。。
そんな状況でミスをするたびに「これがこうだから失敗した」と説明をすると、「また言い訳じゃ!」「理屈たれが出た!」などと揶揄されるばかり。。。
自分自身は、分析している内容を伝えているつもりが、周囲から見ると言い訳ばかり言うやつだったとみられていたのですね。。。

【理屈っぽいといわれなくなったきっかけ】

小学校高学年になった頃、成長期で身体能力が急に向上する時期がありました。期を同じくして、理屈っぽいと言われなくなりました。
今振り返ると、そのタイミングで、苦手な運動が苦手ではなくなったのですが、自分のイメージにある程度体がついてこれるようになったからだと思います。実際、スポーツは万能からは程遠いですが、一通りのことが人並み以上にできるようになっていました。
そうなると、同じことを言っていても周りからは「笹井の言う事だから聞こう。」という姿勢に変わって、逆にアドバイスとして受け入れることで感謝されることもありました。
この経験で私が学んだことは、

  • 独りよがりの理論 → 自己弁護(言い訳)で尤もらしいことを言う → 理屈っぽい

ではなかろうかと。
ではロジカルとは?

【理屈っぽい+メタ認知=ロジカル?】

引用させていただいたBooks & Appsの中に書かれていたことからの抜粋ですが、これを読んだなるほど、と思いました。
——-—

  • ロジックには「どれだけのファクトをカバー出来ているか」という守備範囲が存在し、一つのロジックで全てのファクトをカバーすることは出来ないということ

  • 自分以外の人もそれぞれのファクトに基づいたロジックを持っており、それは必ずしも「正しい・間違い」の関係ではなく、同じ程度の説得力、同じ程度の重要性で並立している可能性がある、ということ

  • 並立したロジックとロジックがそれぞれ矛盾している場合は、その間で何か落としどころを見つける為の補助線となるロジックが必要である、ということ

——-—-—
自分のロジックに固執する場合、いくら自分にとって論理的・合理的であったとしても、他の人が関わる「場としてのロジック」としては不十分である可能性がある。
つまり、「ロジカルな人」とは、「場としてのロジックの落とし所を導き出せる人」である、という事であると理解しました。
言い換えるならば、メタ認知能力、つまりは自分も周囲も含んだ「場」を俯瞰して見ることができ、「場の理屈」を考えられること。
究極的には、理屈っぽくても、理屈の中に包含される場をどんどん広げていけば良いのかな、と思いました。

【で、結局何が言いたいの?💢】

はい、あくまでも自己研鑽の方向をどうするか、という自分に向けての戒めでして。。。
これを読んでいただいた方にも少しでも響くところがあれば、嬉しいです。
。。。うーん、やっぱり、理屈っぽいですかね?😅


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