66 都の跡を彩るコバノミツバツツジ
紫香楽宮は、742(天平14)年に、聖武天皇によって離宮として造営されました。翌743(天平15)年に、聖武天皇によって大仏建立の詔が紫香楽宮で発せられます。正式に都として定められたのは745(天平17)年正月です。しかし、周辺の山火事や、地震の発生があって、同年5月には、都が奈良に戻されました。
紫香楽宮跡は、1926(大正15)年に、国の史跡に指定されました。史跡の範囲はその後拡大されて、26.6haとなっています。史跡は、甲賀寺または甲賀宮国分寺の寺院跡と比定される南側の内裏野地区、北側の宮殿跡の宮町地区、その中間にある大路跡の新宮神社地区、大井戸跡の北黄瀬地区、鋳銅所跡の鍛冶屋敷地区の5ヶ所に分かれています。
史跡は、花崗岩の山に囲まれた非海成層や沖積層の雲井地区の小さな盆地にあります。コバノミツバツツジは全体的に多いですが、群生しているのは内裏野地区と、周辺の山です。山間を抜ける信楽高原鉄道、国道307号沿いは、4月には紅紫に染まります。史跡の北東部の山の、甲賀忍者の修業の場でもあった標高664mの飯道山や、信楽高原鉄道の紫香楽宮跡駅から東の山に入る下山川沿いの山路のアカマツ林に、コバノミツバツツジが群生しています。
紫香楽宮跡駅から西に1km弱の寺院跡の内裏野地区と、東側の山から流れ出る下山川《しもやまがわ》沿いを紹介します。なお、内裏野地区、紫香楽宮跡駅、下山川《しもやまがわ》には、東海道自然歩道が通っていて、手軽に散策できます。寺院の伽藍配置と復元鳥観図は、案内板に次のように記されており、建造当時の335個の礎石が残されています。
駐車場から登り詰めた金堂跡には、神社が祀られています。
神社の周りの金堂の礎石です。
講堂の礎石です。
立ち並んでいた僧房の礎石です。
塔の礎石です。
戻ってきて、池に映り込んだコバノミツバツツジです。
雲井を取り囲む花崗岩の山は、第2話の我が家の周りや、第5話の田上山と同様に、江戸時代中期にははげ山になっていまし。1879(明治12)年度からは、山腹を階段状に均して、クロマツやヒメヤシャブシなどの苗を平段に積む積苗工の砂防工事が始まりました。その後、渓流の石積堰堤が造られました。
下流から順に紹介します。1900〜1901(明治33〜34)年竣工、1959(昭和34)年修理の粗⽯コンクリートを用いた⽯⼯附属⼟で、⾼さ5.2m、堰⻑10.0mの下山川第1号堰堤があります。薮漕ぎが大変なので、写真では紹介しません。
1897(明治30)年竣工、1954(昭和29)年修理の、粗⽯コンクリートを用いた⽯⼯附属⼟で、⾼さ5.4m、堰⻑45.0mの下山川堰堤です。
簡易な堰堤に当たる、下山川床固です。
1897(明治30)年竣工、1954(昭和29)年修理の粗⽯コンクリートを用いた⽯堰で、⾼さ2.0m、堰⻑26.0mの下山川第2号堰堤です。
同年の、1897(明治30)年竣工、1954(昭和29)年修理の粗⽯コンクリートを用いた⽯堰で、⾼さ2.7m、堰⻑18.0mの下山川第3号堰堤です。
下山川第3号堰堤の上に堆積した、真砂土の広い砂原です。
わずか数ヶ月の都でしたが、都の夢の跡を彩るコバノミツバツツジが多いのが、紫香楽宮跡です。