映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』 私の見方と感想
今月Netflixに加入したので、ネットで酷評されていたドラゴンクエスト・ユア・ストーリーを今さらながら観た。
映画の内容や展開については情報を遮断していたものの、酷評されていることは知っていたので期待値はあげないようにしていた。
まぁ、ドラクエⅤ好きやし一回は観とかないとアカンやろ、という感じで。
率直に述べると、僕はこの物語が大好きになった。
ドラゴンクエストⅤのゲームと同じくらい、良い作品だと思う。
極めてどうでもいい個人的な感想(読み飛ばしてもらってOK)
リアル調に3D化されたキャラクターの見た目が今ひとつ自分好みではないという点は終始感じたものの、映像事態は美麗に作られていたので世界にどっぷりと浸かることができる。
要所で挿入される歴代のBGMも素晴らしく、僕としてはゲームプレイを追体験するかのような感覚に十分陥ることができた。
どうしてもシナリオが急ぎ気味になったりカットされてしまうのは尺の都合、仕方ないだろうと思いながら、結婚式がなかったりルドマンとの喧嘩別れの流れ、終盤のジャミとゴンズのワンパンやドラクエファンなら「ん??」となる部分(ギガンテスがルーラを唱えるとか娘が登場しないとか)もちょこちょことなかったわけではない。
何もかもが100点満点というわけにはいかなかったけど、それでもドラクエⅤを1時間半ほどで追体験するのに十分なシナリオ展開と映像のクオリティだったと私は感じた。
何より、シリーズのBGMの選曲と挿入タイミングのセンスが良いように思う。
物議を醸した点についての私なりの解釈(ネタバレ含む)
ネットで酷評された理由は物語終盤、リュカ(主人公)と勇者(主人公の息子)が宿敵であるゲマにトドメの一撃を刺し、魔界の門を封じるべく天空の剣を空に向けて投げた直後に訪れる。
無事に魔界の門を閉じ、喜びの表情で生還する勇者をリュカは受け止めようとする。
だが、その直後、自分以外を残して世界が停止するのだ。息子が封じた魔界の門からは立体造形物が世界を侵食してくる。
ここまでくれば、察しのいい人なら次の展開が予想できることだろう。
立体造形物の中から現れたのは、ドラクエⅤのラスボス『ミルドラース』
ではなく、なんと、ウイルスプログラムだった。
視聴者が感極まる場面において、本作のクリエイターはいわゆるメタフィクションと呼ばれるものを挿入して世界をぶっ壊しにきたのだ。
ああ、これはマズイ、と僕は正直思ってしまった。
選ばれし者として世界の平和を取り戻す使命を背負い魔王討伐を果たすという、没入度の高いドラクエというコンテンツにおいて、メタ要素は非常にデリケートかつデンジャラスなゾーンだ。
僕はもう引退してしまったが、現在も運営が進行しているドラクエ10ではメタ要素を含んだサブストーリーがユーザーの反感を買ってしまい炎上。後日、サブストーリーは夢オチだったという方向に捻じ曲げることで作り手側がテコ入れを図っていたことを覚えている。
誰しもが使命を託されて夢中になっている最中に「どうしてそんなことに熱くなれるの?」と横槍を入れられたくはないだろう。
これはネットの酷評も致し方ないことか。
僕がそう思うなか、件のウイルスプログラムは戸惑うリュカに向かって、この世界が作りものであるという事実を次々に突きつけてくる。
この世界はドラクエⅤをリメイクして作られたバーチャルリアリティの世界なのだと。
大好きになった女の子へのかけがえのない思いも、共に戦った仲間との絆も、息子が産まれたときのあの喜びも、父を失ったときの身を引き裂かれるような悲しみも。
何もかもすべて、プログラムによって生み出された虚構に過ぎないのだと。
現実を突きつけられ、膝をつきながらも反撃するリュカにウイルスプログラムは追い打ちをかける。
自身を開発した天才プログラマーからの伝言として一言、こう言い放つのだ。
「大人になりなさい」
と。
ウイルスプログラムはリュカを強制的に現実世界へ引き戻そうとする。
VRシステムによってキャンセルされていた現実世界の記憶が蘇り、リュカは冒険したこの世界が架空の作り物であることを思い出した。
自分はプログラミングによって作られた世界の一プレイヤーに過ぎなかったことを。
それでもなお、リュカはこの世界にとどまり続けようと歯を食いしばった。
この世界が作り物であると認識してもなお必死に留まろうとするリュカに対して、ウイルスプログラムは問いかける。
「何故そうまでしてこの世界にしがみつくのだ!」
リュカはこう答えた。
「お前にも、お前を送り込んだ人間にも、分からないだろうな!」
喜びも悲しみも、この世界のありとあらゆるものに価値を与え、愛と慈しみで包み込むような気高くて優しいBGMが流れる。
リュカは自身の子供時代を振り返る。
「子供の頃から僕にとってゲームの世界は決して嘘じゃなかった」
「たとえ、それがプログラムでも、あいつらと過ごした時間は本物だった」
現実世界のみを価値のすべてだと定義するウイルスプログラムに対し、リュカは自身の胸を示しながら力強くこう訴えるのだ。
「この旅も――
この出会いも――
全部――
ここに残ってる!」
それでも、なお、ウイルスプログラムはリュカの想いを否定する。
「それは虚無だ! 幻影だ!」
ウイルスプログラムの力によってリュカの姿がデジタルへと帰化していく。
優しく勇敢で誰よりも強かった父を死に追いやった憎きゲマ、宿敵との死闘の証である傷口がみるみるうちにピクセルに侵食され、自分がこの世界で体感したすべてのものが、ただの電子信号の集合に過ぎないのだと告げてくる。
それでも、リュカの心は折れなかった。
この世界は虚無でも幻影でもない。
ウイルスプログラムの言葉を打ち砕くように、無機質な何かを振り払うように、力強く、その言葉を口にした。
「ちがう! もう一つの現実だ!!」
***
その後、スラリン(仲間のスライム)に成りすましていたアンチウイルスプログラムの助力を受け、リュカはウイルスプログラムを撃破し、大好きなドラゴンクエストの世界を守り抜く。
アナログの息吹が、デジタルによって生み出された無機質なCGの隅々にまで血脈を行き渡らせた。
世界は平和を取り戻し、再び色と熱に包まれて動き出した。
リュカは戦友たちと別れを告げ、故郷の村に向けて歩きはじめる。
サンチョに呼びかけられて、丘の上に走るビアンカと息子。
その背中を見つめながら、リュカは物語のエンディングがすぐそこに迫っていることを悟った。
物語がエンディングを迎えたら、自分は現実の世界に帰ることになるだろう。だけど、この世界は確かに存在していた。
風が吹き、リュカはこの世界の存在を確かめるように感覚を研ぎ澄ませ、大きく深呼吸をする。
そして、愛するキャスト達の呼びかけに応えてリュカは故郷の町が一望できる大樹の丘へと走りはじめた。
『序曲』が鳴る。
世界のすべてを祝福する花火が、青空に幾度も打ち上がった。
THE END
僕たちはそれぞれ、かけがえのない大切な世界を抱えて生きている
もしも貴方が『とにかくメタ的な展開をドラクエに持ち込んだことが気に食わなかったんだよ!』と感じたのなら、この記事を読んだところで印象は変わらないかもしれない。ドラクエの世界に最後まで浸らせて欲しかったという気持ちは分かるし、そう思っている人がたくさん居たからこその低評価の嵐なのだとすると、この映画はエンタメという観点からは失敗に終わっていると言わざるを得ない。
それでも、僕はこの映画の価値をそれだけで終わらせてしまいたくはなかった。
この物語には『フィクションは果たして”虚無”なのか?』という問いかけが組み込まれている。
子供のときには電源を入れた瞬間から画面に広がる光景と音が世界のすべてになった。白黒の拙いドットだろうと、カクカクのポリゴンだろうと、8ビットの電子音だろうと、そこに己のすべてを投影することができた。
なのに、大人になるにつれて現実の世界が比重を大きく占めていく。何かを背負う度にフィクションの価値が下がっていくことを、大人になった多くの人が経験しているのではないだろうか。
もう昔のようにゲームやフィクションの世界に本気になれない自分の存在(本作のウイルスプログラム的な存在に限りなく染まった自分)――を認識したことのある人間にとっては、この物語に込められた問いかけは、感慨深く心に突き刺さるものがあった。
大人になって、ゲームの世界はプログラミングとデータの集合体であることを知った。心を揺さぶられた漫画の世界もアニメの世界も小説の世界も、そこに登場した大好きなキャラクターも、すべて架空の存在で実在しない。
すべては嘘話だったのだと、虚無感に駆られた。どんな心の動くフィクションを観ても、その世界から抜け出した瞬間、あの世界は現実のどこにも存在しないのだと途方に暮れることになる。
フィクションの体験を虚無に変えない方法は、多分いくつかある。
本作で提示された一つの方法は、”フィクションの価値を信じ続けること”だったのだと思う。たとえファンタジーだろうと現実世界に存在していないのだとしても、誰がなんと言おうと、自分がそのフィクションを好きでいること、かけがえのない体験がそこにあったのだと、価値を持ち続けることがフィクションを虚無に変えず、人の心に存在させ続ける何よりのチカラなのだと。
特にゲームやCG映画の場合、デジタルな表現方法だからこそ、プレイヤーのアナログな心の動きがより重要になってくる。さらに、同じゲームを体験していてもゲームをプレイした人の数だけ”あなたの物語”は存在する。
それは『深夜、親が寝静まった頃にこっそりとゲームをしていた思い出』かもしれないし、『仲のいい友人と情報交換しながらゲームをした思い出』かもしれないし、『一時的であろうとイヤな現実を忘れて没頭することのできたゲームに救われた思い出』かもしれない。
ゲームの世界。
テレビの前でコントローラーを握りながら冒険する自分。
そして、自分が実在している現実の世界。
そのすべてによって”あなただけの物語”が紡がれる。
それが本作のタイトルがユア・ストーリーたる所以であり、メタ展開へと繋がった要因なのではないだろうか。
この物語は、ドラゴンクエストの世界とゲームの外側でコントローラーを握り胸を熱くするプレイヤーを包括して、フィクションを丸ごと肯定したのだ。
それは、フィクションを愛する人の心そのものの肯定に繋がっていると僕は思う。
たとえ作り物だとしても、体験したあなた自身が価値を感じているのなら、フィクションはあなたにとって、もう一つの現実になるのだと。
そのメッセージを伝えるためにはどうしてもメタ展開を取らざるを得なかった。それは多くのドラクエファンにとって受け入れがたいものだったのかもしれないけれど、このメタ展開による体験は、国民的RPG(誰もが子供のときに一度は触れ、大人になっても特別な思い入れを持っている)であるドラゴンクエストを除いて他になし得なかったと思う。
僕はこの作品をエンタメとアートの両方を上手く融合させた作品だと思っている。
ドラゴンクエストおよびフィクションを愛するすべての人が、一人でも多くこの映画の面白さとメッセージを受け取ってもらえることを願う。
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