第6話 米軍占領下の千歳へ
私たち家族が分断され、そして再会を果たしたこの間、敗戦国日本は連合国軍―実質アメリカの占領下に置かれていた。日本中に、アメリカ軍が進駐していた。
現在は空港の街である北海道の千歳にも、1946年4月に7,000人のアメリカ進駐軍がやって来た。千歳には戦時中、海軍の基地があった。連合国軍は日本の「非軍事化」「民主化」を政策として掲げており、堂々とそれらの設備を接収し、拠点とした。さらに1949年には、仙台に進駐していた部隊が交代でやって来て、翌年朝鮮戦争が始まると彼らは朝鮮へ出兵した。その穴を埋めるため、1951年、その数1万2000人に及ぶと言われる千歳進駐軍最大規模のオクラホマ師団がやって来た。基地内の施設では間に合わず基地外にテントを張って野営し、近隣の山野で猛特訓を重ねた。前途には朝鮮戦争への出兵が待っていた。
やぶれかぶれの彼らは、市中でとにかく金を使った。千歳には次々とビヤホール、キャバレー、飲食店がつくられ、その2階に「パンパンハウス」と呼ばれる売春宿があった。進駐軍のバラまき目当てに、全国から売春婦が集まった。また、アメリカの軍人は、私たちからすれば何でもないようなバケツやほうきなども面白半分に買っていった。当時中堅サラリーマンの平均月収が5~6,000円という時代に、こうした日用品が1,000円程度で売れたというのだから驚きだ。
基地内では兵舎の建設が急がれたため、土建業者が数社入り、5,000人の労働者がこれらの工事に関わっていた。基地内では通訳や運転手、メイドなどとして働く者の雇用も激増した。建設業の勃興、軍人の落とす金、雇用増などが町の経済を潤し、町の税収も驚異的な伸びを見せた。税収は倍々に増えていき、こうした好況は「オクラホマ景気」と呼ばれ、北海道内外にその噂が広まった。
私たちは無事に樺太から引き揚げ、夫もシベリア抑留から帰還したが、その後の暮らしは非常に厳しいものだった。夫はシベリア帰りとわかると、「共産党だ」「赤に染まった奴だ」と差別され、仕事に就くことができなかったのだ。捕虜になるくらいなら舌を噛んで死ねと言われたような時代である。養母の実家という家こそあるものの、私たちは幼子を抱えながら明日どうなるかも知れないぎりぎりの生活を送っていた。
そんな最中、千歳の好景気の噂は、青森・深浦にいた私たちの耳にも入るところとなった。夫の兄から、富山から出て来て千歳の隣町である恵庭で建設業を営んでおり、千歳の米軍基地の建設にも携わっているとの便りがあったのだ。深浦でくすぶっているなら、千歳へ来ないか―夫の兄は私たちにそう声をかけてくれた。元来根無し草の私たちである。少しでも生き延びる術があるならと、迷いはなかった。養父母と私たち夫婦、長男はほぼ着の身着のままも同然で千歳へ向かった。
千歳に到着すると、まずその活況に驚いた。日本人、外国人入り乱れて街に人が溢れていた。ものを売る人、抱き合うアメリカの軍人とパンパン、取っ組み合いの喧嘩をする大柄な外国人、飛び交うドル札…このどこの者とも知れない者が集まった街なら、私たちも背景を問われることもなく溶け込めるかもしれない―。久しぶりに安堵するような、期待に胸が高鳴るような感覚を覚えた。
当地では日用品や食料が高値で売れると聞いていたので、私たちは千代田町というメイン通りにほど近いところに居を構え、小さな商店を開いた。恵庭の夫の兄が、自宅兼商店の建物をこしらえてくれたのだ。そこで私たちは米を中心に、味噌や醤油、石鹸などさまざまなものを売った。もともと旅館兼地域住民の集い場を営んでいた養父母も、地域のお世話係のようなことをしていた「おまわりさん」の夫も、この生業が性に合っていたようである。養父母はソ連の占領下に置かれた樺太で逞しくもソ連人の将校相手に旅館業を続けていた人たちだ。それが今度はアメリカ人に替わっただけで、外国の軍人さん相手はお任せあれとばかりに、簡単な英語を覚え、彼ら相手に商いを行っていた。養父母はロシア語も多少話せるので、今思えばかなりインターナショナルな商売人だったと思う。じきに、松田商店では米軍の将校相手に下宿業も行うようになった。一般の軍人は基地内に暮らしていたが、将校クラスになると市中に住まいを持つことができたようである。こうして私たちの「松田商店」はたちまち南名好の希望館よろしく街の集い場となった。
ここには私たちのような樺太や満州から引き揚げてきた家族や、シベリア抑留から帰還した人が大勢いた。戦後の落着先で偏見を持たれ、職に就けず、好況の噂を聞きつけこの地にやって来た人たちだ。長男もこの頃既に小学校に通っていたが、児童の数は膨れ上がる一方で、どんどん学級が増えていった。この地では、海の向こうの生活を経験した者たちが、アメリカという文化に順応しながら、活き活きと暮らしていた。何より、シベリアから帰った後抜け殻のようになっていた夫に、またはつらつとした表情が戻ってきたことが嬉しかった。