第7話 沈みゆく陽、昇る陽―米軍の撤退と家族の変容
こうして私たちの暮らし向きはかなり良くなっていった。そして、私たち夫婦はこの千歳の地で新しい命を授かった。次男・浩の誕生だ。樺太で長男が生まれて1年経った頃、日本が戦争に敗け、私たち家族がばらばらになったこと、命がけの密航、長い年月を経ての再会とここまでの道のりが走馬灯のように駆け巡り、私は生まれたばかりの浩の小さな小さな頬に自分の頬を寄せた。もう二度と、大事な家族と離れたくない。神様、どうかこの幸せが壊れませんように。そう強く願った。
その頃の千歳といえば、治安の悪さでも有名だった。何しろ、当時パンパンハウスは250軒ほども軒を連ね、1,000人以上の客引きの女性が街角に立っていたのだ。ビヤホールは昼間から開いていて、大音量の音楽とアメリカの軍人、パンパンが溢れていた。暴力事件、砲撃事件、レイプ事件なども日常茶飯事で、麻薬も取引されていたという。そんな混沌とした街の中を通って子どもたちは通学していたのである。
これには子を持つ親としては問題意識を持たない人はいないだろう。多感な時期の子どもには刺激が強すぎるし、何か事件に巻き込まれたらと毎日心配でならなかった。さすがに子どもが何か事件に遭ったという話は聞かなかったが、我が子からもビヤホールの音がうるさくて授業に集中できない、帰り道も騒がしいしなんだか怖いと苦情が入った。とはいえ私たちはその進駐軍が落とすお金で商売を成り立たせている身である。我が子に貧しい思いをさせたくない、一方、教育に良い環境に置いてあげたい。その狭間で私たちは頭を悩ませた。
だが、1953年、朝鮮戦争が終わると、千歳基地にいたアメリカ陸軍の戦闘部隊は本土への帰還を始め、1956年には撤退を完了した。基地の役割は朝鮮戦争の後方基地から、通信基地へと変容していった。それと同時に、街に立つ女性たちも千歳を離れていき、一時の活況は潮時を迎えつつあった。
一方の私たち家族は、賑やかさを増していく。1954年、三男・敏雄の誕生である。3人の息子の世話と家業で、慌ただしくもいとおしく、きらきらとした日々が過ぎていった。
しかし、運命は残酷なものだ。その年の暮れ、次男・浩がわずか3歳という幼さで、その短い生涯を閉じた。38℃近い熱が2,3日続いたので病院で連れて行ったところ、風邪と診断され風邪薬をもらってそのまま自宅で療養していた。ところが、一向に熱が下がらないのでこれはおかしいと思い、他の病院へ連れて行ったところ、はしかとの診断を受け、更に肺炎も併発しており、もうかなり衰弱しており手遅れだということだったのだ。どうしてこの子はこんなにも早く旅立たなければならなかったのだろう。どうして私たち家族はまた、それも死というもっとも悲しい形で引き裂かれなければならないのだろう。家族を失うことがトラウマになっていた私は、深い悲しみにくれた。
その後ほどなくして、私のお腹に子どもを身籠ったことが分かった。きっとこの子は私に落ち込んでいる場合ではないと活を入れるために、私たち一家に希望を与えるためにやってきてくれたのであろう。私は少しずつ元気を取り戻しながら、1955年10月、四男・文雄を出産した。そして五男・幸雄と次々に男の子に恵まれたのである。私としては一人くらい女の子が欲しいという思いがなくはなかったが、夫は元気な男の子に囲まれて嬉しそうにしていたので、私もこれで良かったと思えていた。ただ、男の子4人を育てるというのは本当に体力勝負で、それこそ毎日が戦争のようであった。「肝っ玉母さん」養母の助けがなければ乗り切れなかっただろう。その大陸的な人柄による子育てがやんちゃ盛りの男の子たちにも合っていたらしく、皆のびのびと育っていった。特に次々と生まれた赤ん坊の世話にかかりっきりになってしまった私の代わりに、三男・敏雄は養母によく懐き、養母とよく二人で出かけていたため、近所でも「ばあちゃん子の敏雄ちゃん」と呼ばれていた。養父母も夫婦二人の生活から、こんなにも子孫が繁栄する未来を想像しなかっただろう。これだから人生は何が起こるかわからない。―いや、養母は私を養女にしたいと申し出た時から、このような未来を描いていたのかもしれない。「人が集う場」を作ってきた人だから。そして私もしっかりそのカルチャーを受け継いだように思う。養母の影響を受け、少しのことでは動じなくなった…ん、これは生来の性分か。