ヘドロの奥底でも自分であり続けた松谷みよ子さんの「小説・捨てていく話」がすごかった
松谷みよ子さんの「モモちゃんとアカネちゃんシリーズ」をご存じでしょうか。大変有名な児童書なので、ほとんどの方は読んだり聞いたりしたことがあると思います。
私は小学校の図書館で出会ってはいたのですが、実は最後まで読んでおりませんでした。かわいい絵、優しいママと愉快な仲間とファンタジーな展開に、ドリトル先生や怪盗ルパンが好みだった私は「子ども用ね!」と最初の2巻で読むのをやめてしまったのです。
このシリーズは全6巻あります(30年かけて完結。大河童話!)。
◆ちいさいモモちゃん(1964)
◆モモちゃんとプー(1970)
◆モモちゃんとアカネちゃん(1974)
◆ちいさいアカネちゃん(1978)
◆アカネちゃんとお客さんのパパ(1983)
◆アカネちゃんのなみだの海(1992)
※カッコ内は初版刊行年
「お客さんのパパ」「なみだの海」・・・子どもの頃はスルーしていましたが、大人になった私はタイトルを見て不穏なものを感じます。
読もう。
早速全巻読むと、そこには離婚、生と死、(その当時一般的でなかった)保育園に預けて働く母の要素が。それらがファンタジーの力を借りて、子どもにわかるような言葉で表現されていました。
・靴だけが帰ってくるパパ
・ママのところに現れるようになった死神
・パパは歩く木で、ママは育つ木 同じ鉢にいると二人とも枯れてしまう
等々
幼年童話界ではタブーとされていた離婚を初めて取り上げた作品なのだそうです。現代の大人である私が読んでも、良くこれを童話にしたなと思うので、当時読者に与えた影響はいかばかりかと思います。
さて。
感銘を受けた私は次に「小説・捨てていく話」を読みました。
劇団を主宰する夫婦の葛藤と別れの物語。
「小説」とあり、登場人物の名前は変えられているものの
主人公の状況や大きな出来事から見ると、ほぼ松谷みよ子さんの実話と推測できます。
モモちゃんシリーズ後半の不穏な空気の背景がここには書かれていました。
モモちゃんシリーズのほんわりした世界の裏側は、
こんなにも壮絶だったのか。
「歩く木」である夫、夫をあがめる「お魚」達、劇団運営資金の苦労、
忍び寄る病魔。高尚な理想に燃える夫、現実世界で赤ちゃんのオムツを替え炊飯器でご飯を炊き、資金を工面する妻。
そんな中でも、あくまでも語り口はおっとりして上品。
自分の気持ちも周囲の様子も、鳥の目で俯瞰して見て、極上の比喩で表現する。作品の中にいたのは、やっぱりあのモモちゃん達のママなんでした。
人間の記憶って可笑しいですねえ。あのころのことを思い出すと、一つの光景が目に浮ぶのです。
長く暗い夜をソファに座って、本を読むでもなく、編み物をするでもなく、ただ手を垂らし、待ち続けている。傍に座っているのは猫。時間はのろのろと流れ、やがてコツコツと足音が近づいてきます。
チャイムが鳴って、ドアを開けるとそこには靴だけがいるのです。靴は玄関に入り、脱ぎ捨てられ、鍵をかけて振り返ると、空っぽのソファだけがあるのです。(「小説・捨てていく話」より)
ドロドロのヘドロの奥底にいても、その言葉は冷たく冴えて美しい。
離婚してから25年後、夫の死去から17年後の1992年に本書が刊行されているのですが、ヘドロをこそげ落とし、濾過し、昇華するにはそれくらいの時間が必要だったのかなと思ったりもします。
(あとがきで「蛇女房の鱗を剝いでいくような思い」と書かれています)
語られない事実はもっとたくさんあったはずで、違う人が書いたらもっとセンセーショナルで暴露的な文になったと思います。
しかし、あくまでも自分の表現を貫き通した松谷みよ子さん。
それが彼女の戦い方だったのだと思うとともに、改めて表現者としてのものすごさを感じました。
モモちゃんシリーズを読んだ後に本書を読み、またモモちゃんを読むのがおすすめです。