ミュージックビデオの身体論⑧デジタルな身体──ミシェル・ゴンドリーからバーチャルアイドルまで
8. デジタルな身体──ミシェル・ゴンドリーからバーチャルアイドルまで
8-1. ミシェル・ゴンドリー
前回(「アマチュアの身体──スパイク・ジョーンズからCGMへ」)は、『ディレクターズ・レーベル』第1弾で紹介された3名のMV監督(スパイク・ジョーンズ、ミシェル・ゴンドリー、クリス・カニンガム)が描き出してきた身体イメージが、現在のMVが描き出す身体イメージの「原型」もしくは「類型」となっているのではないかと仮説を立て、スパイク・ジョーンズの諸作品とその系譜に連なるMVを紹介して来た。続いて今回取り上げるのは、ミシェル・ゴンドリーである。
ミシェル・ゴンドリーは1963年にフランスのベルサイユで生まれた。パリの美術学校で出会った友人たちとバンド「Oui-Oui」を結成し、当初はドラマーとして活躍。そこで自作したMVがビョークの目に留まり、『human behaviour』(ビョーク、1993)のMVを監督したことをきかっけに、数多くのMVやCMを手掛ける人気映像作家への道を歩むことになった。
ビョーク『human behaviour』(1993)
2001年には、スパイク・ジョーンズ製作、チャーリー・カウフマン脚本による『ヒューマンネイチュア』で長編映画監督デビュー。長編2作目の『エターナル・サンシャイン』(2004)ではカウフマンと共に脚本を執筆し、アカデミー脚本賞を受賞。その後も『恋愛睡眠のすすめ』(2006)や『僕らのミライへ逆回転』(2008)、『グリーン・ホーネット』(2011)、『ムード・インディゴ うたかたの日々』(2013)、『グッバイ、サマー』(2015)などの映画を監督している。
ミシェル・ゴンドリー『エターナル・サンシャイン』(2004)
8-2. デジタルな身体
ミシェル・ゴンドリーの代表作の一つとして、ケミカル・ブラザーズ『Star Guitar』(2003)のMVがある。同作では、列車の窓から眺める風景と楽曲が奇妙なシンクロを見せる。まったく同じかたちをした柱や煙突、建物、さらには車や通行人などが、楽曲のビートに合わせて反復的に出現し、流れ去っていくことで、視覚的なリズム体験が生み出されるのだ。ここにはゴンドリーのMVを特徴づける要素が凝縮されている。すなわち、映像と音楽の厳密な同期、実写映像とCG・VFXの見分けがつかないシームレスな合成技術、そして両者が組み合わさることによって生じる非現実的な浮遊感覚だ。
ケミカル・ブラザーズ『Star Guitar』(2003)
『Star Guitar』の主役はデジタルな車窓風景だが、1997年に発表された『jóga』では、風景のみならずビョークの身体もまたスキャンされ、デジタル加工され、周囲の風景とシームレスに接続される。自由自在に移動するカメラは、ビョークの出身地であるアイスランドの風景を俯瞰で捉え、広大な山脈が地割れを起こしてマグマを露出させる様子を映し出したかと思えば、山の頂に立つビョークの周りを旋回し、さらに彼女の胸に開いた穴から体内に潜り込んでいく。洞窟のような暗いトンネルを抜けると、その先にはまた、海上に浮かぶ島の風景が広がっている。
ここに提示されたビョークの身体は、マイケル・ジャクソンのMVに見られるような「スター」の身体でもなければ、スパイク・ジョーンズが得意とするような「アマチュア」の身体でもない。正確にシミュレートした身体に大胆な加工や演出を施し、独特な非現実感もしくは浮遊感を生じさせる「デジタル」な身体である。
ビョーク『jóga』(1997)
ミシェル・ゴンドリーのMVを特徴づけているデジタルな身体もまた、後続の作家たちによって受け継がれ、現在のMVに見られる身体イメージの「原型」もしくは「類型」のひとつとなっている。例えばアーティストの谷口暁彦が制作したホリー・ハーンドン『Chorus』(2014)のMVでは、卓上のノートパソコンを見つめる人物がその空間ごとスキャンされ、バーチャルな空間の中に再配置される。両者の発想はよく似ているが、『jóga』では、当時の先進的なCG・VFXを用いた「リアル」な視覚表現が視聴者の目を惹いたのに対し、『Chorus』では、不完全なスキャンによるイメージのゆがみや欠け、大小様々なグリッジなど、以前なら「ミス」や「ノイズ」として排除されてきたものが一種の視覚効果として機能していることが大きな違いとして挙げられるだろう。この差異は、一連の映像技術が広く普及し、多少の知識と機材さえあれば誰でも容易にCG・VFXを扱えるようになった時代の変化と対応している。
ホリー・ハーンドン『Chorus』(2014)
8-2. アナログでデジタルな身体
本稿で取り上げる「デジタルな身体」は、必ずしもデジタル技術だけを用いて描き出された身体を意味しない。もちろんそれは、コンピュータの普及やCG・VFXの発展に伴って数を増やしてきたものではあるが、「デジタル的」と言い得る特徴を持った身体描写や映像表現は、それ以前の時代にも遡って見出すことができるだろう。
例えば研究者の石田美紀は、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズなど近年のハリウッド大作で重宝されている「モーション・キャプチャ」技術は決して実写物語映画における「新参者」や「異物」ではないと指摘する。同論において、石田はエティエンヌ=ジュール・マレーが考案した「クロノフォトグラフィ」(連続撮影により運動を分解し、それを一つの画面上に焼き付けた写真)や、『白雪姫』(1937)や『指輪物語』(1978)などデジタル化以前のフィルム作品にも用いられている「ロトスコープ」といった技術を取り上げることで、運動を解析し、シミュレートすることを目的とした映像の系譜を浮かび上がらせている(石田美紀「新しい身体と場所──映画史における『ロード・オブ・ザ・リング』三部作」『入門・現代ハリウッド映画講義』人文書院、2008年)。こうした観点からすれば、ロトスコープによって命を吹き込まれた1937年の白雪姫も、アナログな技法で作られていながら同時に「デジタルな身体」を備えていると捉えることもできるだろう。
デイヴィッド・ハンド『白雪姫』(1937)
8-3. 複製される身体
さしあたり、ここではMVで見ることのできる「デジタルな身体」の主な特徴として、①特定の形態や運動のシミュレーションやスキャニングによって成立しているか、もしくはデジタル技術を用いていなくても、数値化され、計算可能であるという印象を与えるような身体が提示されていること、②シミュレートされた身体がさらなる複製や加工(拡大・縮小や変形、分割など)の対象となること、③スキャンやシミュレーション、複製や加工の過程で、元の対象に含まれていた要素や情報が捨象され、フラットな質感を備えることの3点を挙げておきたい。
ミシェル・ゴンドリーのMVでは、「複製」される身体がとりわけ印象に残る。例えばケミカル・ブラザーズの『Let Forever Be』(1999)。そこでは、眠りから覚めた女性の身体が画面分割のたびに複製され、増殖し、並んでダンスを繰り広げる。非常に複雑な画面設計や目まぐるしい場面転換が行われるが、それらすべてをCG・VFXで表現しているわけではない。複数のダンサーが同じ衣装と髪型をして1人の女性を演じたり、複製された時計や階段、ドラムセットなどを実際に個数分用意して撮影を行うなど、アナログな仕掛けも多用しながら、万華鏡的世界を作り出しているのである。
ケミカル・ブラザーズ『Let Forever Be』(1999)
『Let Forever Be』における身体の複製をさらに洗練させ、アイデアとしてはシンプルでありながら、より複雑な画面の運動と複製同士の関わり合いを実現させたのが『Come Into My World』(2002)だ。そこでミシェル・ゴンドリーは、街路を歩くカイリー・ミノーグをカメラで追う。ミノーグは同じ場所を周回し、1周ごとに彼女自身の複製や他の通行人の複製が現れ、街は人で溢れていく。カメラの動きを厳密にコントロールし、周回毎に流れていく風景をぴったり一致させて合成することで、同一人物の異なる時間の様子を一つの画面上に同居させているのだ。
カイリー・ミノーグ『Come Into My World』(2002)
近年のMVにおいて、身体の複製は作品の見せ場としてだけでなく、よりカジュアルな使われ方もする。例えばTWICE『Heart Shaker』(2017)の終盤では、雪がちらつく中、9人のメンバーがその倍の18人に増殖し、皆で歌い踊る。もちろん複数テイク撮影した映像を合成しているのだろうが、なめらかに揺れ動くカメラワークのせいで、一見すると1テイクで撮られた映像と見分けがつかない。TWICEを知らない視聴者がこの場面だけを見たら、18人グループのアイドルなのだと誤解をすることさえあるかもしれない。映像技術を誇示することのない、さりげない複製が行われている。
TWICE『Heart Shaker』(2017)
8-4. フラットな身体
続いて、「フラットな身体」が登場するMVを見てみよう。例えばミシェル・ゴンドリーが監督した『Around The World』(ダフト・パンク、1997)には、ミイラや骸骨、ロボットなど、それぞれ異なるコスチュームを身につけた5グループのダンサーが登場する。グループごとに楽器の音が割り振られており、楽曲内でその音が鳴るのに合わせて、ひたすら決まった動作を繰り返す。彼/彼女らは楽曲の擬人化、あるいはリズムパターンを可視化した存在として画面に現れている。
ダフト・パンク『Around The World』(1997)
先述したように本稿では、たとえデジタル技術を用いていなくても、数値化され、計算可能であるという印象を与えるような身体が映し出されれば、それを「デジタルな身体」に分類する。機械的な動作や反復的な動作、無表情や作り笑い、統一された衣装やシンプルな衣装は、生身の身体に本来備わっているはずの様々な要素や情報を画面上から覆い隠し、代わりにその身体にフラット(平面的・表面的)な質感を纏わせるのだ。
ミシェル・ゴンドリーは『Go』(ケミカル・ブラザーズ、2015)のMVでも、同じ衣装を着せたパフォーマーたちに楽曲と同期した機械的・反復的な動作をさせ、フラットな身体を作り出している。『Around The World』にあった雑多で装飾的な要素が排され、人気のない無機質な空間を舞台としたことで、画面全体のフラットでミニマムな印象がますます強調されている。
ケミカル・ブラザーズ『Go』(2015)
こうしたフラットな身体と画面設計を広告の世界で大々的に展開したのがユニクロだった。2007年6月に第一弾が発表された「UNIQLOCK」は、ユニクロの服を着て踊る4人の少女の映像と、デジタル時計の時刻表示とが5秒ごとに切り替わるブログパーツ(ブログのページ上にコンテンツを埋め込み、表示させるためのプラグイン)である。ユニクロのグローバルな展開を視野に入れて、マーケティング部の勝部健太郎とクリエイティブディレクターの田中耕一郎が中心となり考案したもので、映像ディレクターは児玉裕一が担当。「カンヌ国際広告祭」の2部門でグランプリを受賞するなど高く評価された。
UNIQLOCK(2008〜2017)
規則正しい5秒毎の映像の切り替えは、セルゲイ・エイゼンシュテインがメトリック・モンタージュ(ショットの絶対的な長さを基準としてつなぐモンタージュの技法)と呼んだものである。「UNIQLOCK」のダンサーたちの身体は、途切れることなく連続した時間を時・分・秒という単位で区切り、断続的な数値として表示する「デジタル時計」を構成する一部品(パーツ)としてその内部に組み込まれ、メトリック(拍節的)でデジタル(離散的)な運動を半永久的に繰り返すのだ。
8-5. スーパーフラットな身体
MVにおけるフラットな身体を突き詰めると、イラストや漫画、アニメなどに描かれるような「二次元の身体」へとたどり着く。例えばダフト・パンク『One More Time』(2001)のMVに、アーティストの生身の身体が登場することはない。代わりに画面上には、漫画家・松本零士のデザインによる青い肌をした四人組ロックバンドが楽曲の演奏を行う姿が描き出される。このコラボレーションは松本のファンを公言するダフト・パンクの両名が、アルバム『ディスカバリー』に収録された4曲のMVのビジュアルデザインを依頼したことから始まった。最終的には、同アルバム14曲を使用した全14話の連作アニメーションが制作され、『インターステラ 5555』(2003)として劇場公開もされている。
ダフト・パンク『One More Time』(2001)
美術家の村上隆は、松本零士作品を初めとして日本のアニメ作品に見られるセル画の表現(例えば『銀河鉄道999』でアニメーターの金田伊功が手がけた一場面)と、伝統的な日本画の表現(例えば葛飾北斎《冨嶽三十六景 山下白雨》(1830-1832頃))を結びつけ、非遠近法的で余白が多くフラットな画面の特徴を「スパーフラット」として概念化している。学術的な観点からは、異なる文脈を強引に接続する手腕が批判的に語られることも多いが、スーパーフラット概念は後続のアーティストたちに多大なインスピレーションを与え、その制作に直接的・間接的な影響を与えてきた。
例えばでんぱ組.inc『バリ3共和国』(2014)には、村上隆作品でも重要な役割を果たす、アニメ化された記号としての「目」が象徴的に用いられると共に、生身のアイドルの身体もまた、イラスト化・アニメ化された身体と重ね合わせられ、フラットな身体として画面上に提示されている。これは明確にスーパーフラット以後の表現であり、また二次元の身体と三次元の身体の境界をなし崩しにしているという意味では、「2.5次元舞台」や「2.5次元ミュージカル」と呼ばれるジャンルとも隣接した表現であると言えるだろう。
でんぱ組.inc『バリ3共和国』(2014)
でんぱ組.incは日本のオタク文化に根ざしたアイドルであり、いち早くアニメやフィギュアを現代美術の世界に持ち込んだ村上隆と親和性が高いのは半ば当然のことであるが、スーパーフラット概念は狭義のオタク文化を超えた広がりを見せ、西欧に対する「日本」の特色を説明するための言葉としてある程度定着すると共に、「クールジャパン」のような国家戦略にも参照されるようになった。「UNIQLOCK」の児玉裕一が手がけた『Future Pop』(Perfume、2018)は、日本のアニメ文化やオタク文化を参照しつつも、それを──Perfumeという独自の地位を築いたアイドルの身体を介して──メディアアート・メディア芸術的な文脈と接続することで、まさに「クールジャパン」戦略と合致するような、未来志向の身体と世界観を描き出している。こうした表現は、オタク文化のコアな共同体よりもむしろライトな客層にも受け入れられる表現として、テレビ放送や国家主導のプロジェクトなどにしばしば見られる一つの「型」となっている。
Perfume『Future Pop』(2018)
8-6. VOCALOID/VTuber/ヴァーチャルアイドル
画面上に生身の身体が介在しない、文字通りの「デジタルな身体」を考察する上では、VOCALOIDやVTuber、ヴァーチャルアイドルといった存在を避けて通ることはできないだろう。合成技術ソフトウェアおよびそのキャラクターとして2007年に登場した初音ミクは、バーチャルシンガーとして無数の楽曲を歌い上げると共に、イラストレーターのKEIが手がけたキャラクターデザインから派生して、イラストやMV、アニメーション、その他種々の二次創作が作られ、音楽的にも視覚的にも、ボカロ文化として知られる新たな潮流の先駆けとなった。
音楽ユニット(同人音楽サークル)のlivetuneが作詞・作曲し、初音ミクが歌う『Redial』(2013)のMVを手がけているのは、先述した村上隆である。村上の会社「kaikai kiki」が運営するアニメスタジオ「PONCOTAN」の所属クリエイターであるmebaeがキャラクターデザインを担当し、歌うミクの背景には、単色で塗られたスーパーフラットな妖怪(?)たちが無数に蠢いている。またDTM(デスクトップミュージック)制作環境が整えられた室内が3DCGによって描かれ、そこにミクが現れて、パソコン画面外の世界を束の間の冒険に出かける姿が描かれる。
livetune feat. 初音ミク『Redial』(2013)
バーチャルな存在と現実世界との交流は、ホロライブプロダクションに所属するVTuber・星街すいせいの『ビビデバ』(2024)でも描かれている。VTuberr(バーチャルTuber)とは、2Dもしくは3DCGで描かれたキャラクターをアバター(分身)として用いて動画配信やコンテンツ制作を行う配信者・動画制作者を指す。彼/彼女らはYouTubeなどのプラットフォームを拠点として、視聴者と交流しながら様々なジャンルのコンテンツを提供しており、その中には『ビビデバ』のようなMVも含まれている。同作は、アニメーションとして描かれた星街すいせいがスタジオでMV撮影を行うというメタな作品で、監督や撮影スタッフらは実写で登場。星街らバーチャルな出演者と協働したり、対立し、口論したりする。終盤には星街が実写の衣装を着てダンスをするなど、リアルとバーチャルが複雑に混合した身体を見ることができる。
星街すいせい『ビビデバ』(2024)
韓国でも、K-POPアイドルシーンにおいて、実在しないメンバーによって構成される「バーチャルアイドル」グループが次々と登場してきた。例えば2023年には、ゲーム会社ネットマーベルの子会社であるメタバースエンターテインメント(2021年設立)が、ハリウッドバーチャルアイドルグループMAVE:をデビューさせた。1月25日に公開されたデビュー曲『PANDORA』は高度な3DCGで話題となり、さらにはメンバーの日常を伝えるオフショット画像やショート動画を投稿するなど、生身のアイドルとほとんど変わらないコンテンツを次々と提供している。まだ一般に広く定着したとまでは言えないものの、理想の体型やパフォーマンスを維持するための過酷なトレーニングや多忙な労働環境、プライバシー侵害による精神的負荷など、アイドルを取り巻く諸問題を解決する手がかりを与えてくれるかもしれない存在として、バーチャルアイドルは注目を集めている。
MAVE:『PANDORA』(2023)
8-7.異質なものとの出会い
先ほど紹介した『ビビデバ』のように「異質なもの」同士が出会うMV、すなわち、アニメーションや3DCGによって生み出されたバーチャルな存在と、生身のアーティストが出会い、共演するMVを、今では至る所で見ることができる。クリス・ブラウン『Iffy』(2022)では、終盤、映画『トランスフォーマー』シリーズさながらに赤い自動車が人型ロボットに変形し、クリス・ブラウンと共に華麗なダンスを披露する。作中の見せ場となるシーンではあるものの、両者のダンスを見つめるカメラは正面からの引きのショットが中心で、視覚的な派手さよりも、冷静で落ち着いた印象が強い。ロボットと人間が今まさに同じ空間上に居合わせているのだという状況を、客観的に提示せてみせるような構図とカメラワークが選択されている。
クリス・ブラウン『Iffy』(2022)
異質なものとの出会いが、映像の世界では最早特別な出来事ではなく、日常的な風景の一部となっていることを感じさせるのが、2022年1月にデビューしたK-POPアイドルグループのSUPERKINDだ。当初は人間のアイドル4名(ユジン、ゴン、デイモン、シオ)、バーチャルアイドル1名(セジン)の5人体制で出発し、デビュー曲『WATCH OUT』(2022)のMVを披露。7月には人間のアイドル(JDV)とバーチャルアイドル(スン)が1名ずつ新規メンバーとして加わり、7人体制となった。
SUPERKIND『WATCH OUT』(2022)
MV上ではメンバー間の自然で生き生きとした掛け合いを見ることができるが、舞台裏を記録した(という設定)の動画やダンスプラクティス動画では、まだまだぎこちない合成が目につく場面も多い。1枚のジャケット写真を撮影するだけでも膨大な時間が掛かったり、バーチャルアイドルのポジションを空けてダンス練習をしなければならないなど、通常のアイドルグループとは異なる困難が多くあるという(河鐘基「K-POPで“絶対にファンを裏切らない”アイドルグループが誕生!」日刊サイゾー、2022年6月30日)。
8-8. 異種共演の系譜
バーチャルな存在を生み出し、生身の人間と共演させるための映像技術の発展に寄与してきたのは、やはりハリウッドの大作映画だろう。バリー・ソネンフェルドが監督した長編映画『メン・イン・ブラック』(1997)の同名主題歌のMVでは、主演俳優のウィル・スミスが、黒服のエージェントたちを背後に従えて、3DCGで描画されたエイリアンと共にダンスする。当時としては最先端のCG・VFX技術が、映画からMVへと流用された一例である。
ウィル・スミス『Men In Black』(1997)
だが本稿の冒頭で、「デジタルな身体」は必ずしもデジタル技術だけを用いて描き出された身体を意味しないと述べたのと同様に、異質なものとの出会いもまた、コンピュータの普及やCG・VFXの発展以後にのみ見られる表現ではない。例えば1985年にスティーブ・バロンが監督したMV『Take On Me』(a-ha)は、二次元的な漫画世界の住人と、三次元的な実写世界の住人が出会い、恋に落ち、互いが互いの世界を往還する物語を描いた傑作である。漫画キャラクターのアニメーションにはロトスコープの技術が用いられ、3000コマ分のイラスト制作に16週間を費やしたという(Liam Allen「Taking on A-ha classic」BBC、2010年10月8日)。
a-ha『Take On Me』(1985)
こうした異種共演の系譜をさらに遡るならば、古くはウィンザー・マッケイによるアニメーション映画『恐竜ガーティ』(1914)や、フライシャー兄弟の『インク壺から』シリーズ(1918-1929)を挙げることができるだろう。同シリーズでは、ロロスコープによって生命を与えられた道化師ココがインク壺から現実世界に飛び出し、ドタバタ劇を繰り広げる。人間ならざるもの、別次元の住人と出会い交流したい、その様子を見てみたいという欲求は、映画史の初期からすでに存在し、アニメーション作品として実現されていたのである。
フライシャー兄弟『ベッドタイム』(「インク壺から」シリーズ、1923)
「ミュージックビデオの身体論」について
この原稿は、MVを撮りたいという学生や、研究をしたいという学生との出会いをきっかけに書き始めた。自分自身、これまで何を求めてMVを見てきたのか。そこから何を受け取り、何を引き出すことができるか。そういうことを考えるうちに「身体」というキーワードが浮上し、現時点の思考を整理するために、この場(note)を活用することにした。