「音楽・平和・学び合い」(26)
◆【実践研究論文】
【不登校をめぐる教師としての「自己物語」の変容】(7)
~中学三年男子生徒の事例を通した「ナラティブ的探究」の試み~
おわりに-今後の展望に代えて
3・11東日本大震災を経て、この国や社会のあり様は、再び弱者への不寛容を顕わにしているように感じる。「不登校」の子どもたちに対しても相変わらず「学校復帰」という「支配的ストーリー」が押しつけられ、ハーマンが論じた「心的外傷」をさらに悪化させる状況が繰り返されているのではないか。
思えば私が「不登校」という観点から教育=発達援助実践の本質をしっかりと捉えておきたいと考えるようになったのは、「教育人間塾」で知り合った亀貝一義氏(札幌自由が丘学園理事長)を通して、多くの「フリースクール」関係者と出会ったことがきっかけであったように思われる。自らの「家族のストーリー」の悲惨から、この問題と向き合うことを避けてきた私だが、2010年12月18日、亀貝氏の誘いで「『不登校の子どもたちにとって最善の環境を求める提言書』の実現をめざす市民のつどい」(不登校の子どもの育ち・学びを支える札幌連絡会主催)に参加し、この提言書28)に対して、学校教育の視点からコメントする機会をいただいた。これは私にとっての実存的課題である「不登校」について、それを重要な研究課題として再認識すると共に、そこで苦しむこどもたちを救うべく「公教育の柔軟化」について改めて考えるターニングポイントとなった。
冒頭で紹介した「教育人間塾」での不登校論議において、亀貝氏は私の投稿を受けて次のように書いている。
(以下メーリングリストより引用)
2011年5月16日
(前略)「不登校の子どもはカナリア」という指摘も当たっているのではないでしょうか。カナリアは炭鉱内の不正常(ガス充満)を人間より先に感じとって鳴き声で知らせるといいます。不登校の子どもは、まさに今日の教育と学校の仕組みの問題点を告発していると理解すべきということをご理解いただきたいと思っています。「マイノリティが知らせている問題」を重視したいということ、マイノリティを大事にしない社会はダメなのです。
亀貝氏はここに記された問題意識を展開し、2011年10月に行われた日本臨床教育学会第1回研究大会において「公教育と子どもの学びの再検討を-不登校を考える5つのキー・クエスチョン」と題した自由研究発表を行い、公教育の「微調整」の必要性を論じた。その4つ目に掲げられた「子どもの居場所」の条件は、私の学校観を大きく揺さぶるものであった。それは「1 一人ひとりの子どもが認められている、2 サポートする大人がいる、3 未来につながる何かがある」というもので、亀貝氏は「これらの観点から言えば、今日の学校が少なくない子どもにとって居場所の役割を果たしていない」とも指摘していた29)。この指摘を受けて、いつか公教育の立場から、実践において応答したいとの意を強くしたことを覚えている。
フリースクール関係者との交流に留まらず、本学会や教育人間塾、こどもの姿を語る会といった、様々な発達援助専門職の方々が領域を越えて語り合い、聴き合い、学び合う場を重ねることを通して、私自身の「不登校」をめぐる教師としての「自己物語」は、教育の論理から発達援助の倫理へと大きく変容を迫られた。言い換えれば「教育=教え育む」から「人間発達援助=育ちを支える」へと「支えとするストーリー」が変化したということだろうか。教育方法学pedagogical methodologyから臨床教育学clinical pedagogyへの移行、又は教える人(teacher)から育てる人(educator)への変化と言い直すこともできる。
しかしながら、公教育の現場の現実は厳しい。私の勤務校は一昨年来、札幌市教委の「人権教育推進事業」の研究推進校になっているが、不登校対応についての教師間コンセンサスができているとは、残念ながら言い難い。NIに照らせば、「神聖なストーリー」(学校復帰を前提とした働きかけ)と「秘密のストーリー」(オルタナティヴなあり方の許容、寄り添うこと:共存的他者として向き合うことの重視)が「対立するストーリー」となっており、折り合いをつけて職場全体で「競合するストーリー」を紡ぎ合う関係にはなっていない。
先述の『不登校の子どもたちにとって最善の環境を求める提言書』へのコメントにおいて、私は次のようなマニフェストを示していた。
・公教育の学校がそのあり様を脱構築して、真に子どもが「育ち学ぶ施設」となり得ているかを自己点検し、「子どもの側に立った」人権感覚の活きる場所へと変わっていかなければならない。
・互いの教育実践に対する相互承認・協働であるべき。「新たなフリースクール」創出と共に「外部機関と連携した新たな学校教育実践」を促すものとなることを期待したい。
ここに示した考えを、「公教育の微調整」との亀貝氏の提案30)に重ねて、公教育の現場で実現していくこと。NI的に言い換えれば、それこそが不登校をめぐる我々教師の「専門知の風景」を、新たに紡ぎ直していくことにつながるのではないかと考える。
今回取り組んだNI的実践を継続していくことから、あり得べき「不登校をめぐるカウンター・スト-リー」を個人・学校・地域で坦々と粛々と紡いでいくことが求められている。「不登校」が問いかける問題から目を背けること無く、子どもや私自身の痛みを伴うナラティブに耳を傾けながら、さらに研究的実践を進めていきたい。今後の本学会での研究的かつ実践的な協働に期待しつつ、さらに多くの発達援助専門職とつながり、「自己物語=支えとするストーリー」を語り直しながら、その都度新たに生き直す人生の旅を、楽しんで進みたいと思う。
【注】
28)不登校の子どもの育ち・学びを支える札幌連絡会
「不登校の子どもたちの育ち・学びを支え、最善の環境を整備する政策を
実現するための提言書」(2010)
29)亀貝一義「公教育と子どもの学びの再検討を
-不登校を考える5つのキー・クエスチョン」
自由研究発表B報告1『日本臨床教育学会第1回研究大会発表要旨集録』
(2011)pp.111-112
30)亀貝一義「不登校をめぐる認識と問題解決の基本方向を考える」
北海道臨床教育学会第2回大会 実践事例検討部門発表資料(2012)では、公教育の「微調整」の方向性を4点示し、4点目に「アウトリーチによる子どものケアの必要性」として、「それほど遠くない将来アウトリーチでの子どもサポートの教育実践があるのではないか」と指摘している。
本研究はAに対する家庭訪問(アウトリーチ)の積み重ねがその核となっており、亀貝氏による指摘に応えるものの一つであると考えたい。
===編集日記===
皆様に支えられて「日刊・中高MM」第3350号です。
笹木陽一さんの「音楽・平和・学び合い」、お届けします。
・『不登校の子どもたちにとって最善の環境を求める提言書』への
コメント
・・公教育の学校がそのあり様を脱構築して、真に子どもが
「育ち学ぶ施設」となり得ているかを自己点検し、
「子どもの側に立った」人権感覚の活きる場所へと変わって
いかなければならない。
・・・互いの教育実践に対する相互承認・協働であるべき。
「新たなフリースクール」創出と共に「外部機関と連携した新たな
学校教育実践」を促すものとなることを期待したい。
・・・・あり得べき「不登校をめぐるカウンター・スト-リー」を
個人・学校・地域で坦々と粛々と紡いでいくことが求められている。
「不登校」が問いかける問題から目を背けること無く、子どもや私自身の
痛みを伴うナラティブに耳を傾けながら、さらに研究的実践を進めていきたい。今後の本学会での研究的かつ実践的な協働に期待しつつ、さらに多くの発達援助専門職とつながり、「自己物語=支えとするストーリー」を語り直しながら、その都度新たに生き直す人生の旅を、楽しんで進みたいと思う。
以上のことを、こころに留め置きたい。
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