「音楽・平和・学び合い」(15)
◆【実践報告】
中学校における臨床教育学的生徒理解
-生徒のナラティヴを引き出す音楽科授業-
要約:中学校の音楽科教員として、臨床教育学の「発達援助」という視点に学びつつ、子どもの声を紡ぐ協働学習を志向してきた。本稿では「ナラティヴ(語り/物語)」という概念に注目し、中学生が置かれている否定的・危機的状況を直視し、対話を通して学び合う民主主義的な関係性をいかに構築していくかということについて、「5分間鑑賞」と名付けた音楽科の実践を中心に紹介したい。その上で、生徒のナラティヴが示す生きづらさを乗り越え、新たな希望を紡ぐ可能性を示唆できればと考える。
キーワード:協働学習、ナラティヴ、学び合い、5分間鑑賞
1.はじめに-私と臨床教育学の出会い・つながり
私と臨床教育学の出会いは今から4年前である。2008年の3月に始まった「教育人間塾」(村山紀昭・元北海道教育大学学長主宰)で知遇を得た亀貝一義氏(札幌自由が丘学園理事長)の誘いを受け、同学園主催の教育フォーラムに参加し、庄井良信氏(北海道臨床教育学会副会長)の話を聴く機会を得たことだった。前任校在職中、研究部に所属して「自己評価・相互評価を生かした授業づくり」を校内研究のテーマとしていた私は、相互評価を「交流/共有」の学習活動と捉え、そこからフィンランドの協働学習(collaborative learning)への関心を深める中で、庄井氏の書いた「フィンランドにおける発達援助学の現在」1)という論文と出会う。そこには「臨床教育学」という言葉こそ現れないが、教育を「発達援助」と捉え直す視点が提示されていた。この論文において、私の関心を強く惹いたのは次の文章であった。
「(前略)最後の一つは、寝る前の読み聞かせ(読み語り)に象徴されるように、安心感のなかで、身体と身体で響き合い、語り合いながら対象世界との関係をたしかめ合う「物語縁」のコラボレーションである。これは、現実からいったん相対的に距離をおきながら、ある物語的世界のなかで、自己と世界、自己と他者、自己自身との関係を編み直していく営み(意味の生成)を目的とした共同活動である。これはナラティヴな関係性が生み出す共同体という意味で、物語共同体(narrative community)と命名できるような原風景である。(後略)」2)
ここに記された「ナラティヴ」なる概念に強く惹かれ、いつか話を聴きたいと思っている中で、先述した教育フォーラムが行われた。庄井氏はそのフォーラムのレジュメに、次のように書いていた。
「学び合いは、子どもの〈声〉を聴きとることから、その〈声〉をひろげて語り合い、新たな〈課題〉、新たな〈希望〉をつむぎ合うこと」3)
田中孝彦氏(日本臨床教育学会会長)は臨床教育学を構想するに当たり、その寄って立つ思想を、1.子どもたちの声を聴くこと、2.人間発達の根本に立ち戻ること、3.援助的・教育的実践の深まりに注目すること、の3つに整理している。4)1.は上記の庄井氏による「学び合い」の定義と重なっている。田中氏は「子どもの声を聴く」ことについて、次のように説明している。
「子どもの生存・成長を支えようとするおとなたちに必要なのは、「厳しさ」や「競争」の強調などではなく、子どもの抱いているいらだち・むかつき・不安・恐れを受け止め、その奥にある「生き方への問い」をともに考えていくことである。あえて言えば、それは「厳しさ」ではなく、思慮深い「優しさ」であり、それを子どもに対するおとなの姿勢・態度を表す言葉で言うと、徹底して子どもたちの声を聴くことである。」5)
私はこれまで、札幌市の公立中学校の音楽科教諭として16年間、三つの学校で仕事をしてきた。その中で「声」を扱う教科としての音楽科のあるべき姿を、様々に子どもたちと学び合いながら追究してきたつもりだ。しかしながら、中学生としての彼らの内なる「声」にしっかりと耳を傾け、それを広げて新たな希望を紡ぐような学びを実現してきたかと自問すれば、残念ながら現実は極めて厳しいと言わざるを得ない。
劣等感情が強く自信をもって自己表現できなかったり、他者とうまく関われない生徒が多く存在するなかで、発達障害や神経症等、特別な配慮が必要な生徒も増えてきている。「内なるもの」の形成はあるが、それが外在化されない。意欲があっても、技能が育っていない。育っていても、表現したがらない。そんな生徒が少なからず存在する。日頃の友人関係が尾を引きずり、限られた関係の中でしか交流できない子も多い。その中で「いじめ」に代表されるような人間関係の脆弱さ、残酷さが現象化し、それを押さえつけるかの様に「ゼロトレランス(無寛容)」の導入(いじめた側への出席停止)が奨励される。不十分な表現でも、それを認め合う雰囲気があれば表現できるはずなのに、子どもも大人も実際にはそこまで人間関係が醸成されていない。
田中孝彦氏は私が上述したような現状を、「人間形成の〈危機〉」と捉え、そこに横たわる「生き方に関わる根源的な問い」に応えることを「子ども理解」の基底に据えている。6)このことは「日本臨床教育学会」や「北海道臨床教育学会」の設立趣意書において、それぞれ冒頭に「子どもの生存・発達の〈危機〉のなかで」と題したパラグラフが置かれていることともつながり、臨床教育学が前提としている、極めて重要な認識であると言えるだろう。
転じて、私が関わっている「中学校・音楽科」における学びは、果たしてこれらの〈危機〉から発した「生き方への問い」に応える意義を持ち得ているのだろうか。「北海道臨床教育学会」の設立趣意書は「日本臨床教育学会」の設立趣意書に基づいて起草されているが、私が注目したいのは、全国学会にはない次の文章である。
「(前略)また、学校の中で子どもが生活する時間と場所の多くは、教室の授業です。授業で、教えることに熟達した教師は、子ども理解の直感力も深く、一人ひとりの子どもの生活概念・生活感情に触れる学びを、科学的概念の探求へと媒介していく指導の重要さを熟知していることも知られています。子ども理解を深めながら、子どもの成長と発達にとって必要な「学び」の質を問いなおし、授業やカリキュラムの開発に繋げていく試みも、北海道の各地域で始まっています。その意味で、北海道では「学び」と臨床教育学、あるいは「授業」と臨床教育学という研究領域もまた、これから深められるべき臨床教育学の一つの重要な研究テーマになると考えられます。」7)
上記の「学び・授業と臨床教育学」というテーマを考える上で、カナダにおけるコネリーやクランディニンらの「ナラティヴ的探究」(narrative inquiry)8)や、フィンランドの「ナラティヴ・ラーニング」(narrative learning)9)を参照することは、たいへん魅力的な研究的視点であろう。しかし本稿ではそこに深く立ち入ることはせず、理論的な追究は機会を改めることとしたい。
本実践報告は、私自身のこれまでの実践について、「ナラティヴ(語り/物語)」という概念に注目しつつ、子どもたちの声を紡ぐことから授業を構想する可能性を明らかにすることを目的とする。まず第2節では、中学生が抱える否定的な心象を示すエピソードを検討したい。第3節では、音楽科における生徒のナラティヴを引き出す実践として、私が14年間継続して行ってきた「5分間鑑賞」の取り組みを紹介する。さらに第4節では、『ギルド』という作品を通して引き出された生徒のナラティヴに着目し、そこに示された生きづらさに音楽がどう働きかけるのかについて分析する。以上をふまえて、第5節では、東日本大震災を契機として取り組んだ授業から生まれた語りを紹介し、音楽科の授業実践において生徒の「ナラティヴ」に注目することの意義について、現段階での私の考えを提起したい。
2.ある中学生の心的現実-否定的なナラティヴから「対話的実践」へ
私は前任校での校内研究をきっかけとして、様々にある協同的/協働的/共同的な学び(cooperative/collaborative/communicative learning)が共通に目指すものを明らかにしたいと考え、その後も他者と関わりあいながら協働で学習を深め、構成的に知識を獲得していく授業のあり方を模索してきた。ここ数年は、上越教育大学の西川純氏(臨床教科教育学・理科教育)が提唱する「学び合い」という考え方に賛同し、2010年の3月に「学び合い北海道・子どもの姿を語る会」という民間教育団体を立ち上げ、その事務局としてこれまで10回の企画を行ってきた。小・中・高校教員(広域通信制含む)、市内フリースクール関係者(札幌自由が丘学園・漂流教室・すくーるhana)、NPO代表理事(ヒーリング北海道)、ファシリテーション・トレーナー(NECO塾・MIW工房)、子育てコーチング・コーチ、地方議会議員、社会教育主事、社会福祉士、病院事務職、一般市民、保護者…といった、人間発達援助に関心を持つ多様な方々が集い、「子どもの姿」を軸に語り合い、学び合う会となっている。
様々な発達援助専門職の方々と学び合うことを通して、常に「子どもの側に立つ」ことを自らに任じているのだが、その一方で、目の前の子どもたちの実態と言えば、私たちが願う姿とは明らかに違うものであることが多い。実際には、極端に「KY」(空気が読めないこと)を嫌い、何か問うた途端に一斉に固まり、不気味な沈黙がいつまでも続く、というのが彼らの現実である。声に出して一斉に確認するような活動を意識的に取り入れても、何人かの声だけがむなしく響き、後は関係ないと言わんばかり。きわめて初歩的な、全員理解しているはずのことでも、極度に周りのことを気にして発言しない。分かっているのに声を出さない。かといって一斉に合唱しようと働きかければ、それなりに豊かな響きで歌う。「みんな一緒に」の横並び意識の中では安心感を持って表現できるのに、個として突出することを極端に嫌う心性は何に由来するのか、といつも考えさせられてきた。
2010年の2月、卒業を目前に控えた3年生のあるクラスで、時間をかけてこの問題について討議してみたことがある。クラス全体での40分の討議の間、発言したのは僅か7名であった。その内容は当を得たものであったとはいえ、「話しあう文化」が奪われていると思わざるを得なかった。彼らから出てきた言葉を整理すると、1.「自分の言ったことが否定されるのがイヤ」という自尊感情(self-esteem)、2.「自分の考えをうまく伝える国語力が不足している」という能力主義(meritcracy)、3.「自分だけがこんなことを考えているのではないかと不安になる」という関係性(relation)の問題が挙げられた。彼らは声を出して発言することこそほとんど無いものの、自分の考えを書くように促せば、それなりの内容を書く。以下はこの討議の後、ある生徒が書いて、私の所に持ってきたものである。
【注】
1)教育科学研究会編
『なぜフィンランドの子どもたちは「学力」が高いか』国土社(2005)
pp.84-94
2)前掲書pp.85-86
3)庄井良信「人をはぐぐむ」札幌自由が丘学園教育フォーラム資料
(2008)p.3
4)田中孝彦「臨床教育学の構想-創造の現場から」
田中孝彦・森博俊・庄井良信編『創造現場の臨床教育学
-教師像の問い直しと教師教育の改革のために』
明石書店(2008)pp.17-30参照
5)前掲書p.19
6)田中孝彦『子ども理解-臨床教育学の試み』岩波書店(2009)p.5
7)「北海道臨床教育学会設立趣意書」(2010)p.4
8)田中昌弥
「カナダにおける教師のアイデンティティ形成と日本の教師像のこれから」
田中孝彦・森・庄井編 前掲書pp.345-370
D.ジーン・クランディニン他(田中昌弥訳)
『子どもと教師が紡ぐ多様なアイデンティティ
-カナダの小学生が語るナラティブの世界』明石書店(2011)
9)庄井良信「ナラティヴ・ラーニングと発達援助の理論
-フィンランド調査から考えたこと」
田中孝彦・森・庄井編 前掲書pp.153-179
===編集日記===
皆様に支えられて「日刊・中高MM」第3311号です。
笹木陽一さんの「音楽・平和・学び合い」、お届けします。
笹木陽一さんの1年10ヶ月ぶりの「連載」再開です。心から喜びの気持ちでいっぱいです。長文ですが味読に値する作品です。論文の一コマですが、折々に掲載継続いたします。
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