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「音楽・平和・学び合い」(20)

◆【実践研究論文】
  【不登校をめぐる教師としての「自己物語」の変容】(1)
  ~中学三年男子生徒の事例を通した「ナラティブ的探究」の試み~

 公立中学校の教師として、これまで多くの不登校生徒と出会ってきたが、その対応は経験を重ねると共に少しずつ変化してきた。本論文では、小4より不登校となった男子生徒に対する関わりについて、1年間に渡って書き続けた実践記録から特徴的なエピソードを取り上げ、それをクランディニンらの「ナラティブ的探究」を参考にしながら分析・再叙述することを通して、教師としての「自己物語」がどのように変容してきたのかを論ずる。
そこから「子ども理解」と教師としての「自己理解」の関係について考察を深めたい。

キーワード:不登校、ライフヒストリー、
      自己物語(セルフ・ナラティブ)、ナラティブ的探究

1.はじめに-自己のライフヒストリー/セルフ・ナラティブへの関心から 

 私は公立中学校の教師になって、現在19年目となる。北海道教育大学大学院(教科教育専修・音楽コース)を修了し、25歳で札幌市立中学校の音楽科教諭として採用されて以来、札幌市内の中学校3校で、副担任としての4年(生徒会部代表・研修部長)の他はずっと担任を務めながら、様々な困難を経験しつつ、この仕事を続けてきた。「様々な困難」の中でも、今回取り上げる「不登校」の問題は、私自身の実存(自己感覚)に深く関わるものであり、様々に出会ってきた「学校に来ない(来られない)こどもたち」と交わした語り(ナラティブ)を通して、私自身の不登校に対する認識や自己理解は、常に問い返されてきたように感じる。

 私自身のライフヒストリー(生育史)において、「不登校」は客観的なものではあり得ない。2008年から参加している「教育人間塾」(村山紀昭・元北海道教育大学長主宰)では、「不登校をめぐる様々な当事者間の共通のテーマ」をめぐって、大変活発な議論がメーリングリスト上で行われたことがある(2011.5.13-17)。私はその議論の中で、次のように発言していた。

(以下メーリングリストへの投稿引用)
2011年5月16日
(前略)私事で大変恐縮ですが、私の姉は中学・高校で受けたいじめがきっかけで不登校を経験し、高校時代の担任の尽力で何とか卒業はしたものの、勤めた地元のスーパーでも同僚から嫌がらせを受け、精神的なプレッシャーからひきこもり状態になり、そのまま精神疾患(双極性障害)を経て通院、残念ながら初期に適切な医療処置が執られず、未だ精神科への入院を余儀なくされています。姉が不登校であった当時は「登校拒否」としか呼ばれず、学校からも家族からも否定的にしか対応されませんでした。
(中略)私のエッセイ風の思考は「不毛」と片付けられるのかもしれない。
でも何よりも大切なのは、一人ひとりのナラティブ(語り)に耳を傾けることであって、論理では説明のつかない様々な痛みを伴った臨床的な語りが、「不登校」の子どもの数だけあるはずなのです。少なくとも、私にとっての「不登校」「学校」問題は、姉の問題なしには存在しません。
(後略・引用以上)

 田中孝彦は「子ども理解を深めるというのは、子どもを理解しようとする大人が自分の子ども時代を想いだし、生育史をふりかえることでもある」と語っている。1)私はこの観点に重なる発想から、自身の連載原稿「音楽・平和・学び合い」(中・高校教師用ニュースマガジンhttp://archive.mag2.com/0000027395/20110131001000000.html)の初回において、次のような文章を書いたことがある。

2011年1月31日配信
(前略)教育研究の分野では近年「ライフ・ヒストリー・アプローチ」という考え方が注目されています。実践者の「個人史」を振り返り、そこに通底する「学習観・授業観・教育観」など様々な価値観に迫る研究です。多くの場合はインタビューでの対話を通して、授業に接するだけでは見えてこない実践の背景を読みとろうとします。今回私が試みてみたいのは、自己言及(セルフ・ナラティブ)に終わることを覚悟しつつ、「何故私はこの困難な時代に教師であり続けているのか」との実存的な問いに形を与えることです。そこには未だ意識されていない価値観、言い換えれば「思想」とも言える何かが隠れているのではないか。本来なら他者の力を借りて対話的に引き出されるであろう「観=思想」に「書くこと」を通して迫る、いわば「セルフ・ライフ・ヒストリー・アプローチ」とでも呼び得る試みに取り組んでみたいのです。
(後略)

  この発想は、本学会設立趣意書が臨床教育学の新たな研究方法として掲げる「教育者・発達援助者の生活史や実践史の吟味」2)に重なるものであろう。本学会第2回大会課題研究2においても、「なぜ、教師・援助者は『実践記録』を書くのか-根源的かつ臨床的《リフレクション》(振り返り)とは何か」と題して、上記の主題を深める意義深い語り合いが行われたのだった。3)さらにこれは、田中孝彦が指摘する臨床教育学の基本的研究方法、即ち、1.当事者の生活史の語りを聴く(narrative based)、2.地域に根ざす(community based)、3.自己の育ちへの着目(self focused)とも通底している課題意識であると考える。4)

 本論文は、私自身の教師としての「自己物語」が、「不登校」の生徒との関わりを通してどのように紡がれたのかを探究することを通して、「子ども理解」と教師としての「自己理解」の関係について深く考察することを目的とする。まず第2節では、ナラティブの概念整理を試みた上で、カナダのクランディニンらが展開する「ナラティブ的探究(以下NI)」を参考にしながら、私の「自己物語」をNIにおける「支えとするストーリー」とみなし、分析の方向性を示したい。第3節では、小4より不登校となった男子生徒(以下A)に対する関わりを例に、Aの指導に関わって1年間に渡って書き続けた実践記録(フィールドテキスト)から特徴的なエピソードを取り上げ、NIの概念を援用しつつ分析・再叙述(語り直し/再ストーリー化)することから新たな「リサーチテキスト」を綴ることを試みる。さらに第4節では、「不登校」問題へのターニングポイントとしての、フリースクール関係者との出会いを紹介しつつ、今後の研究の方向性について、若干の展望を記したい。

【注】
1)田中孝彦『子ども理解と自己理解』かもがわ出版(2012)p.4
2)「北海道臨床教育学会設立趣意書」(2010)p.3
3)黒谷和志「北海道臨床教育学会第2回大会報告(課題研究2)」
           『北海道の臨床教育学 第2号』(2013)pp.23-24
4)田中孝彦『子ども理解-臨床教育学の試み』岩波書店(2009)pp.40-43

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===編集日記=== 
  皆様に支えられて「日刊・中高MM」第3332号です。
  笹木陽一さんの「音楽・平和・学び合い」、お届けします。
 ・【不登校をめぐる教師としての「自己物語」の変容】
   ~中学三年男子生徒の事例を通した「ナラティブ的探究」の試み~
 の1回目をお届けします。
 この連載も6回ぐらいにはなろうかと考えます。
 興味深い実践研究論文を拝読しながら適宜コメント出来ればと
 思っています。

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