川合大祐「伝道の書に捧げる薔薇——『馬場にオムライス』解説」(無料全文公開)
ササキリユウイチ『馬場にオムライス』の巻末解説を全文公開します。
川柳句集『馬場にオムライス』の通販、批評会の申し込みは上記Formから。川合大祐氏の本解説を読むと、来る「川柳を見つけて-『ふりょの星』『馬場にオムライス』合同批評会」11/19もさらにたのしめること間違いなし。
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今ここにおいて、ササキリユウイチ(以下、すべて敬称略)の第一句集『馬場にオムライス』の解説を書こうとしているわけだが、さて、解説とはそもそも何だったのか。
「解いて説く」ことであるとして、ではそれには相手がいなければならない。いったい誰に向けて、この『馬場にオムライス』を解いて説こうとしているのだろう? という疑問をかかえたままに、この解説をはじめてみようと思う。
その疑問を疑問としてもっているために、「誰に」あるいは「誰かに向けた」という姿勢があらわになった句を、本書のなかから引いてみることにする。
引用が長くなったが、命令、勧誘はもちろんのこと、なんらかの〈共感〉を文法の上であらわした句をざっと引いてみた。見落としはあるかもしれないが、全三百七十四句中、四十三句がこの「呼びかける」句である、というのは、かなり句集として多い方だと思うのだ。
無論、この『馬場にオムライス』が従来の「句集」の範疇に収まるものではない、という前提があってしてもだ。
本句集において、かなりの句が「呼びかけ」ていることはお分かりかと思う。
だが、ササキリは「誰に」「何を」「どのように」呼びかけているのか。たとえば「問十二 豆電球で呵責せよ」の句において、これはいかなる「問」だったのか。
少し回り道しよう。「そもそも〈言語〉とはなんであったのか?」という、誰もが答えられる、しかし真に誰も答えたことにならない「問」を立ててみることにする。
「言語の発生が、そもそも指示語であった」というテーゼは、なにもドゥルーズ=ガタリを引かなくても、容易に想像できるところだ。
猿人に限りなく近かったサピエンスの群れが、「コミュニケーション」を取るとき、「あなたにこれをして欲しい」(などという丁寧な言葉遣いではなかったにせよ)という「願い」を託す方法として、音声による「言語」というツールが選択されたと、ここまではだれでも思いつくことができる。
問題なのは、その「言語」と「人間」がいかなるかたちで結びついたか、ということだが、それはおそらく、「言語」について考えたことのある人(それはたぶん、「人間」という種族の大部分を占める)の数だけ、答えがある。そのすべてが正解、と言ってもよい。なぜなら、人はそれぞれがそれぞれの「言語」によって考える、把握する、行動する以外の手法を不可能としているからである。その人の言語とは、その人にしか通用しないものなのだ。
ならば、とつぎの疑問が当然わいてくる。その人だけの言語であるならば、なぜ「他者」と言語によったコミュニケーションがはかれるのか。コミュニケーション、とは言わずとも、「じぶん」というものを表現したときに、「他人」にとどく、ということを信じていられるのか。
結論から言えば、人というものは、あまり言語を信じていない。
これも当然の話で、人がいかに「言語」という「ツール」に裏切られてきたかということは、それも「人間」という種族の大半を占める人びとが痛感していることではないか。
人は人に裏切られない。人は言語によって裏切られる。もっと言えば、人は自分自身にも裏切られない。人は自分自身の言語によって裏切られる。
この「裏切り」ということは言語自体を支えているのだが、それは後で触れることがあるだろう。いずれにせよ、人と言語というものは、深い痛みによって接続されている。この場合の痛みとは、脳髄に直結される痛覚と、なんの比喩でもなく同一視してよいように思われる。痛みが人間の行動を支配するのと同一に、言葉は人間を支配するのだ。
だからこその「願い」なのではなかろうか。
言語が、他者に対する「願い」であった、ということは先ほど述べた。この「願い」から発生した「言語」とは、その型式によって、痛切な——またしても痛切な——「願い」というものを創造したのではないか。その点において「願い」さらには「祈り」というものをいかにして産んだのか、というメカニズムを、まざまざと見せてくれるのが、本句集『馬場にオムライス』であった、と言ってさしつかえないように思う。
本句集をつらぬくのは「願い」である。
という句に対して、わたしたちは、読む、という営みをいったん止めさせられる。それは、「意味がわからない」からではない。わたしたちが「意味がわかっている」と思い込んでいる「読む」という営みは、多くの場合、意味がわかっていない。というのは誤解をまねく言い方なので、言い直すなら、多くの場合、「読む」という営みに、意味はほぼ発生しない。読む側にしても書く側にしても、「意味」というものはごく僅少な要素でしかない。これは、たとえばドライヴ感のある読書、というものがいかに「意味」を削ぎ落とされていく行為か、思い出してもらえれば首肯されると思う。くりかえすが、ササキリ句に対して立ち止まるのは「意味がわからない」からではない。そこに意味がありあまるほど在り、その奔流にわたしたちがあやうく飲まれてしまいそうになるからである。
「問十二」というところに何の意味があるのか。それは、なぜここに「問十二」が置かれたのかという意味、である。句集というものをひとつの文脈としてとらえたとき、この「問十二」は、あきらかに文脈を破壊する。この自壊によって——意味の自壊と呼べるかもしれない——壊れた意味の意味、というモノが発生するのだ。
「問十二 豆電球で」の一字開けにしても同じことが言える。川柳という文芸形態において——ササキリたちの活動が、いかなる意味でも「川柳」と呼べるか否か疑問をはらみつつも——一字開けとは、非常にセンシティヴな手法である。
たとえば「一字開けは作者にとっても読者にとっても甘え」などという言説がある。これがいかに無価値な言説であるかは、「問十二 豆電球で」における文体を見れば瞭然ではあろう。
ここにおける一字開けとは、「問十二」と「豆電球で」を離すことにより、「問題文」の擬態をしている。だがそれ以上に、発話主体(この場合、限りなく作者に近いのだが)を、空白で覆うことにより、主体の居る次元を、われわれが読んでいる次元からずらしている。メタフィクション、と呼べばそれまでだが、メタ構造にすら甘んじることなく、この句は「何か」を訴えようとしている。それは何か。
その答えは先延ばしにするとして(いや、もう自明のことかもしれないが)、もう少し句を見てみることにしよう。「豆電球で」における即物性である。この「豆電球」自体へのノスタルジイを感じることもむろん可能であるが、それはこの句の「文脈」を無視する行為でもある。「問十二 豆電球で呵責せよ」という文脈で読むのなら、「豆電球で」という異形の言葉の噴出にこそ、その真価を見出すべきではないだろうか。
「呵責せよ」という。それも「豆電球で」。このとき「豆電球」はわたしたちがふだん想起する——使用する、でも良いのかもしれないが、わたしたちはもはや、ふだん豆電球を使用していない——豆電球とは異貌をみせる。「電球」が「豆」であること。これは、ある意味と意味とがぶつかりあうことでもある。(手術台の上のミシンと蝙蝠傘を想起することももちろん可能である)。そしてまた、異形の言葉である「豆電球」が文脈の脈を突き破り、「いきなり」噴出してくるということ。そこになによりの「意味」を読みとることがひとつの手段ではあろう。おおくの文学作品、あるいは臨床の現場がそうであるように、「異質な言葉の噴出」とは、自意識の噴出である。この「豆電球で」という噴き出しかたは、まさしく作者——この場合、あえて発話主体という言葉は避ける——の「意識」の漏出とみてよい。それがどんな意識だったか?ということは、先ほどの「何か」を訴えようとしている、では「何か」とは何か? という疑問と重なってくる。もう少し先に進めよう。
「問十二 豆電球で呵責せよ」という「呵責せよ」。このときの「呵責せよ」という切実さは、「問十二 」という擬似の問題文に覆われて、わたしたちとは別の次元にある、というのは先ほどみたとおりである。だが、それは「呵責せよ」の切実さを薄めることになっているのか? むしろ、別の次元とはわたしたちの「上に」君臨するものだとすれば、いっそうの切実、いや権力すら保持していないか? と問うこともむろん可能である。
問う、といまわたしは書いた。この句が「問十二 」からはじまっているのはもちろんのこと、読むものがこの句に対して「問う」といういとなみを惹起させること。それがおそらく、この句にしたためられた「意味」なのだと思う。そしてその「意味」とは「願い」であった。「意味」を問わせる運動こそ「願い」であった。先ほどからつづけてきた疑問——「何か」とは何か? の答えもまた、「願い」と言ってしまってよいだろう。
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ねがう、という行為が、ひょっとしたら天上にとどくかもしれないという望み。
それを人は言語で「祈り」と呼んだ。ならば「願い」とは本来的に、天上の清浄を指向していることになる。
上をめざすその視線を「聖なるもの」と称することもできるが、ではその対極にあり、対極がゆえにどこかで一貫してしまう「汚穢」は、必ずや視座に入ってくる。
ササキリ句を読んで印象的なのは、その「汚穢」へのまなざしの過剰さである。
このうち、「隠口を」の句は汚物を描いたものではないが、「隠」という言葉のつかいかたの例として、ここに挙げた。しかしこれらの句などはまだおだやかなほうで、「この世の汚れ」あるいは「秘部」を凝縮したような、五感を突き刺すような川柳が、いくつもいくつも襲来してくる。
しかしながら、この「汚穢」には、不思議なくらい憎悪というものがない。その一点を取ってもイノセンス、とさえ言える。
「わきまえろショートウルフの膀胱ぞ」においては、「膀胱」というものから、直に尿の臭いがしてきそうではある。であるが、この「尿」というものは存在しない。
それは、「ショートウルフの」だからでもない。「わきまえろ」だからでもない。「膀胱ぞ」の「ぞ」だからでさえない。おそらくはすべてのパーツは尿の非在を否定しつつ、全体としてくみあがったときに、「膀胱」あるいはそこから喚起される「尿」の存在を消し去る。
「わきまえろ」と発話されることによって、人はまず、この句から何らかのフォースが発せられていることを感じる。これはSTAR WARS におけるフォースの概念をそのまま導入させてかまわない。あるもの、ある意志を任意の方向に歪まさせるフォース。
「わきまえろ」は命令文である。だがこの命令には指示がない。どのようにしたらわきまえていることになるのか、そもそも誰に対して誰がわきまえるのか、まるで不明である。何よりも、「わきまえろ」と言っているのは誰か? という問いに、この句はなにも答えてくれない。
その時点で、まずひとつのものが消える。消えたものは何か、と問うまでもない。もともと非在であったものが消えた、というだけのことなのだ。ただここに在る(!)のは、消えた、という現象のみである。
「ショートウルフの」においても、ほぼ同じ現象がみられるだろうか。ショートウルフが髪型であるとして、この場においては何の意味ももたない。意味をもたないことの意味、という事象について、わたしたちはすでに「問十二」の句に関してみてきたはずだ。それは繰り返していうようだが、非在であったものが消えた、という現象に重ねられる。これでまた、ひとつのものが消えた。
「膀胱ぞ」にかんしてはどうだろうか。ここにあって、「膀胱」というモノは存在しているのではないだろうか。「膀胱」であれば確かにそれはうべなえることだろう。だが「…ぞ」なのだ。これは文末にあって「…だ」と強調する助詞の「ぞ」である。
なぜ、「膀胱」を「ぞ」で強調しなければならなかったのか。その前提として、いまこの世界にあって、「ぞ」がいかなる位置にいるのか、たしかめなければならないかもしれない。
「ぞ」を日常会話につかう、日本語圏の人間がいるだろうか。いるとしても、ごく少数であろうし、また一種の諧謔としてつかわれていることは想像に難くない。諧謔とわたしは書いた。この「ぞ」というのは、限りなく冗談に近いところで、かろうじて存在をゆるされている、そんな「既に滅んだ」日本語と言ってしまってよい。
ならば「膀胱ぞ」と「これは膀胱である」ことを強調したとしても、「ぞ」の諧謔が、すべての存在の強度を洗い流す。「膀胱ぞ」とは、「これは膀胱ではない」とさえ言い換えることもできよう。ここにおいてまたひとつ、句からモノが消えた。本来中心軸たるべき「膀胱」までが消えたのである。
この、みずからがみずからを消してゆく「句」のありようとは、作家であるものならば、いちどは夢みたはずの型式と言ってもよいだろう。みずからによるみずからの消尽。それは自己愛のひとつの変奏ではあるかもしれず、じじつこの句にあるものはたとえば「愛」と呼べるものではあるが、そこには、表裏一体のはずの「憎悪」がまたしても存在しない。
「尿が存在しない」と述べた。これは「膀胱」が膀胱として存在しない=機能しないことに拠った。ならば愛が愛として存在しない=機能しないならば、愛が内蔵する憎悪もまた、存在しないのではないか。
「わきまえろショートウルフの膀胱ぞ」において存在するのは「愛」と呼べるものである。それは、すべてのパーツが非在であることによる、空無を埋めるものが、「愛」の行為にほかならないと認識されるからだ。「愛」がなんらかの欠損を埋める渇望であることは言うまでもない。だが、この愛はみずから消尽してゆく句の上に立っているのだから、やはり愛としての機能をうしなっている、と言い換えることもできる。
したがって、そこに憎悪は存在しない。
考えてもみよう、「憎悪」が存在しない汚穢とは、すなわち「愛」が存在しない清浄であったのだろうか。
だがそこに罠がある。ササキリは徹底して汚穢を描くことに拘泥している。それはあるオブセッション、とさえ呼べる。しかしそこに汚さはない。イノセンス、とさえわたしは書いた。無垢。無であること。無にすること。さっきまでみてきたように、あるものを消し去るいとなみ、すなわち「無」をめざす行為こそがササキリ句を支える重要な柱であった。その拠ってたつ所以が、いまわかったような気がする。ほんとうにササキリが——あるいは、本句集の作者が、と呼ぶべきかもしれない——目指すところとは、「憎悪」のない地点ではなかったか。そのために「愛」さえも消えてゆくものとして設置されていたのではなかったか。
「隠口をつぶさに語ってやるお菓子」においては、これは汚穢ではないにせよ、「隠口=こもりく」じたいがすでに隠れるものとして提示されている。(隠れることを示されていることのパラドックスについては、また他の機会に譲りたい)。「つぶさに語ってやる」のもまた、隠されたものを「つぶさに」語ってやる、という行為において、おそらくはなにもつぶさではない。そもそも「つぶさ」という言葉自体が、「ぞ」ほどではないが、諧謔に満たされた言葉ではあった。「つぶさに語ってやる」ことによる空無は、その対象である「お菓子」にまで波及する。「お菓子」とはなにか。お菓子は人間の言語を解さない。ここにおいてこの「語ってやる」といういとなみは、また「無」への扉をひらく。「お」菓子、という「お」が付いていることの幼児性は、ますますその運動に拍車をかけることになる。幼児のイノセンスは「無い」ことによってかろうじて保持できるものであるからだ。
「灰色の膿ってそりゃあ萌えるねえ」ではどうか。膿が灰色をすることがあるかどうかは、このさい現実の——辞書通りの意味での現実の——膿とは関係がない。
「ってそりゃあ」と句はつづく。この口語体の「ということはつまりそれは」という意味は、話し言葉に変換されることによって、あるひとつのベクトルを付与される。そこに口語で話す人間の位置を考えてもいいし、まず「変換されている」という状態そのものに、ベクトルの力と方向を読み取るべきなのだ。そしてそれが「萌えるねえ」とつづく。
「萌え」という、いささかに手垢のついた、しかしこれ以外にその現象を言明できない現象とは、なんと「ぞ」あるいは「つぶさ」に似ていることか。このあたりの言語感覚の鋭さは、いまさらに指摘するまでもないだろう。いずれにせよ、この「萌えるねえ」という言葉もまた、すべての言葉がそうであるという刻印を鮮明にしつつ、いつか消え去るものである、という前提に脈動している。
ここでやはり、「無」が句を支えているのだ。
だからくりかえす、ササキリ句の汚穢に憎悪は存在しない。そしてそのために消すべき愛は、あやういアクロバットの上に立っている。
なんのためのアクロバットか? それはおそらく、愛と憎悪を同時に含み、また同時に含まないものをえがくためではなかったか。それが何かと問われれば、「聖なるもの」と答えるのはもはやたやすい。
ササキリ句の「汚穢」とは「聖なるもの」をめざすものであった。それが単なる「きれいはきたない きたないはきれい」の俗流解釈ではなく、「川柳」という言語の超絶技巧を駆使した上でなされていることには、注意を必要以上に払っても払いすぎということはないだろう。
そしてこの地点において、ササキリ句は奇妙な——そして正当な——かたちで、キリスト教への接近を見せる。
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このような句にキリスト教への接近を見るのはたやすい。
もちろん、ここでのクリスチャンとは「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という道徳律ではない。むしろ右の頬を打たれる前に対手の両頬に落書する、そんな律のもとにこの作者は生きている。
だから「キリスト教」というよりは「キリスト教的言語観」、ロゴスの統御する世界観に基づいている、と言ったほうがよい。
「光あれ」という、はじめにあったことば。「神の子」である「イエス・キリスト」が「イエス=救世主/救世主=イエス」という言語の方程式にあること。あるいは、神の名がシークレットコードである現象。
いずれにせよ、「言葉」というものの希求こそ、『馬場にオムライス』という句集を支えるものだ。もちろん、ほぼすべての「句」あるいは「句集」と呼ばれるものが言葉を希求していることは言うまでもない。本句集が従来の句集と著しくちがっている点を挙げるなら、「言葉とは裏切るものである」というテーゼを根底に抱え持っている点だ。
人は言葉に裏切られる。自分は自分自身の言葉に裏切られる。
この句集の三百七十四句、膨大な言葉の奔流は、とどのつまり言葉の裏切りである。言葉がつねにひとを、みずからを、そして言葉自身を裏切ってゆく様相が、この洪水であり、洪水を外在と内在させるノアの方舟が、この「本」であった。
ついさきほど、キリスト教的な道徳律ではない、と述べた。が、ここに至って、ユダの裏切りによって、そしてその包摂によって真の「キリスト」として復活したひとりの青年救世主の影を、どうしても重ね合わせたい誘惑に駆られる。
それはおそらく、読者としてまちがっている行為なのだろうとも思う。だが一方で、そのまちがいをゆるしてくれる存在としての「誰か」を想起したくもなるのだ。
わたしはここまでの解説において、ササキリ句を引いて、「誰に」「何を」「どのように」伝えようとしているか、という疑問に答えようとした。一句に対してあまりに冗長な読みではあったかもしれないが、一句を引く、ということは句集全体のフラクタルを解析するということであった。この句集を手に取った人には、どうか一句を通じた全体をつらぬくものを、あるいは全体をつらぬくものによる一句の読解をおねがいしたい。わたしは、「何を」伝えようとしているのか、ということに「問十二」の句を引いて考えた。結論は「願い」であった。「どのように」に対しては、汚穢という観点から、「無にすることによって」と答えた。
ならばそろそろ、「誰に」向けた「川柳」であるのか、その一点を考えるべきではないのか。
その答えはじつはもう自明のものとしてあらわれている。
この本句集冒頭近くで掲げられた句。わたしが指摘した「何を」「どのように」は十全にあらわされており、当然のように「誰に」も明示されている。
馬場に、というのは冗談ではない。
ここにおける馬場というのは、交換可能な函数である。理論上、あらゆる数理を含むことが可能な函数。なぜならこの句において方程式ははじめから破壊されているからである。馬場はすべてをふくむ。あなたを。わたしを。彼女を。彼を。愛を。
それは「世界」をふくむとも言えるだろうか。つねに混乱し、錯綜し、統御をこばむ世界。その世界が「誰に」の答えであったのか。その問いかけに是非を唱えるのは、もはやわたしの役割ではない。わたしの「解説」の射程は、もはや限界に達しようとしている。
これから先は、あなた、この句集を手に取ってしまった(幸あれ)あなたにゆだねられている。そして当然、作者のササキリユウイチにもゆだねられている。これを重い十字架と表するのは、あまりにロマンチシズムにすぎるだろうか? その問いも、この句集をめぐる問いかけとして、ここに置いておく。
しかし何のことはない、わたしの「解説」、「解いて説く」対象は「あなた」であった。とは余言ではあるが、あるテクストを書く/読むということ、それは川柳を書くということにもじゅうぶん転写できる真実である。ほかでもないあなた——ササキリユウイチを含むあなた——にこの解説を捧ぐ。
最後にこの句をならべておくことによって、微力ながら問いに対する手がかりの緒となるよう、祈っている。
川合大祐(かわい・だいすけ 川柳作家)