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すてられない写真
PCのメモリが残り450MBとかになっていた。少なすぎる。
Windowsの更新プラグラムすらインストールする容量がないというヤバさ具合である。
なんでこんな目に遭ったのだろうか・・・とプログラムファイルを開いてみたら、1年前に軽いノリで撮った写真やら、ネットで拾った画像やらでピクチャフォルダが10GBくらいの容量を食っていた。犯人こいつや。
というわけで、笹かにかまは突如、ピクチャの断捨離作業を始めることになった。
いま自分が使っているノートPCは、大学に入学するときに買ったものである。そういうわけで、1年前からの日常の記録がたんまりと入っている。
と思いきや、授業のプリントをメモ代わりに取った写真やら、なんともコメントしがたい変顔自撮りやら、「よく今まで消されずに残ってきたな」と思ってしまう画像もそこそこあった。
ただ、その中でも「これは消したらちょっと寂しい気持ちになるな」と思える写真があった。
それは料理の写真だった。
大学生になり一人暮らしを始めた当初、不慣れな環境で犬かきをしている自分が精を出していたのは、自炊料理だった。
料理の先生をしている僕のマッマは、よく「大変なことがあったときは、おいしいご飯を食べるに限る」と言っている。
人生初、「ひとりで暮らす」という大きな変化を迎えた自分にとって、料理をつくるということは、ひそかに自分の心の平穏を保つための手段だったのかもしれない。
写真を見ていると、いつ・どんな状況で作ったのかはまったく思い出せないのだが、「確かこれはこんな味だった、食べたときにこう感じた」という感覚はよく覚えている。どうやら僕は作ることより食べることのほうが向いているらしい。
ただの料理が写った写真なのに、いざ向き合うと、食事を始めるまえの高揚感が、断捨離精神に勝ってしまい、忍びない気持ちになる。
去年の冬頃からか、キッチンが寒くなってきたことで徐々に自炊が億劫になり、気づけば自炊した料理を写真に収めることもなくなっていった。
なぜ自分が作って食べたものの写真ひとつで、こんなにも楽しくなったり、寂しくなったりするのだろうか。もしかしたら、写真というものには過去にあった出来事以外の、目に見えない大事な何かが一緒に写っているのかもしれない。
そしてこれはスーパーで買ってきて食べてた、かなりおいしいプリン。