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あこがれのキャプション荒ぶり

イラスト・小説の投稿サイト、pixiv
わたしは11年利用している。まちまちだが、投稿も11年つづけている。
手を出したのは中2で、今思えばそのとき出会わなかったら、たぶん投稿はしていないだろうと思う。詳しくは下記の記事で。


pixivにはキャプション欄がある。
作品の補足や注意事項、もしくは関連する話だったり、キャラクターたちへの愛だったり。投稿者の思いがそこにはある。
その思いが強すぎる方がいる。たまに読んでいる人のなかにいたりして、わたしもお見掛けする。
pixivにもタグ機能があって、キャプションで思いが爆発している作品には
#荒ぶるキャプション
とつけられていたりする。

じつは、わたし。その #荒ぶるキャプション にあこがれている。
愛の強さが、自然に出てきてしまっているように感じるからだ。

本文は紙に書いてから、wordに写している。
キャプションも、書きたいことや記しておかないといけないことを、メモにしている。そのときに、ぐわっと出た思いを手書きの汚い文字で残している。小説が完成する前に思いついたこと、書いていて、ここが自分でわくわくした・たのしかったということを。
そうしているにも関わらず、投稿したときのオプションはおとなしいのだ。
自分で読んでみても、ふつうの、当たり障りのない文章だ。一時期、顔文字が個人的なブームだったときは、ちょっと多かったけれど。(顔文字は、使いたい時期と1個も使いたくない時期がある)
小説が出来上がった! 早く投稿するぞ! と急ぐあまり、溢れた感情を忘れるのか。
物語が無事終わりを迎えた、とほっとして熱い気持ちが消えるのか。
そもそも、気持ちの温度が低いのか。
どういうわけか、キャプションが荒ぶらないのである。

というか、もう。荒ぶれないのではないかとも思ってしまう。
大学四年生ときに書いた、卒論の小説。
その登場人物たちが落ち着いていると指摘された。文章で感情の起伏を書くのが苦手なのだ。自分自身は気分屋で、感情が顔に出やすいのだが。なぜだか文章では、冷静なのだ。ガチャで好きなキャラやレアが出たら叫んだり声が出るのに、文章では叫べないのだ。
わりとちゃんとしていないけれど、文章だけはまともそうに見せようとしているのかもしれない。まぁ、そっちの方がいいのかな? 多くの人に会わないところで、文章を発表しているからね。隠し通せるかも。


#荒ぶるキャプション と似た雰囲気を持つ、あこがれがもう1つある。
それはTwitterで見掛ける、これまた愛だ
1ツイート、140字までと決まっている。
それでもまだまだ伝えたいことがある! 
そんなとき、最後の行に使う 文字数もしくは、(文字数)

140字の限界まで詰める思い、いいなと思う。
思うのだが、わたしの愛はあっさりしているようで。
文字数限界まで行かないのである。あと、気持ちを文章にできないので、数行で終わる。前使ってた垢(削除済)には、好きなものへのここが好きを書いていたが、すっかり忘れている。どんなことをつぶやいたか、思い出せない。薄情なので、140字も行かないんだろうなぁ。
ゲームや漫画やアニメ、バンド、好きなものはあるのだけれど、胸を張ってオタクと呼べるほど愛を持っている作品はない。熱狂していない。

わたしはなにかのオタクになりたい。だから、#荒ぶるキャプションや(文字数)にあこがれを抱いているのだと思う。



ササイ ヨリメ名でオリジナルも投稿しています。ここと同じ作品、企画参加の作品を置いています。


今は落ち着きすぎてて、刺激がほしい。ササイ ヨリメでした。


画像はぱくたそさんから。