「喜べ、幸いなる魂よ」(佐藤亜紀著、KADOKAWA)書評
豊崎由美さんを講師にお迎えした書評講座第三回目の課題として書きました。まずは講評後の手直し版、その下にいただいたコメントと講評前のバージョンを載せます。
<手直し版>
生き方の価値観は人それぞれ。家庭第一の人もいれば仕事に生きたい人もいる...自分の生き方ビジョンを周囲が必ずしも共有してくれるとは限らないわけで、そこに様々なドラマが生まれます。
『喜べ、幸いなる魂よ』(佐藤亜紀著、KADOKAWA)の舞台は18世紀のベルギー、フランドル地方。主要登場人物の一人ヤネケは、知能が飛び抜けて高く探究心旺盛な女性。裕福な亜麻商家のお嬢様ですがその行動はかなりぶっとんでいます。きょうだいのように育ったヤンを巻き込んで生殖の「実験」に勤しんだ結果、妊娠。嫁入り前の娘の妊娠は体裁が悪いからと出産まで遠方に送られると、これ幸いと研究・執筆活動に没頭します。そしてこの自由な生活がすっかり性に合った彼女は、産後も実家には戻らず、女性だけの共同体であるべギン会の修道院で暮らし始め、会の運営に辣腕を振るうのです。
ヤネケを愛し、一人前になったら里子に出された子供を迎えに行って彼女と一緒に育てていこうと望んでいたヤンにはこの選択が納得いきません。「なんでだよ、そんなに男(自分)と暮らすのが嫌なのか」とやりきれない気持ちになるのも理解できます。正直、ヤンの求める「足るを知り、家庭を大切に生きる」ビジョンの方に共感を覚える読者も多いでしょう。しかし時には腹を立てながら、他の女性と結婚したりもしながらも、ヤンは自分を引き取ってくれた養父(ヤネケの父親)から受け継いだ家業を守り、ヤネケの研究・執筆活動をサポートし続けます。
物語中にはヤンをはじめ「今ここにこういう役割が必要とされていて、自分にはそれができるからやる」という行動原理で動く人々がたびたび登場します。「妻業」が得意な人が妻をやり、「母業」の得意な人が母の役割を引き受ける。べギン会では、レース編みの上手い人がレースを編んでパンを焼くのがうまい人がパンを焼き、そうして生産されたものを売って得た利益でコミュニティ全体を運営している。各人が自分にできることを考えて合理的に役割を受け入れ、能力を発揮していく様子は見ていて気持ちのよいものです。
しかし、ヤンが本当は”ヤネケに”家庭生活のパートナーになることを望み、それが叶えられず長年辛い気持ちを持ち続けたように、理にかなっているというだけでは心を充足させることができないことも。その極端な例が、ヤネケとヤンの息子レオでしょう。母親とのトラウマをこじらせにこじらせて、恐るべきミソジニーモンスターに成長してしまったレオ。彼の欲求は、父親や、他のもっと母性にあふれた女性たちからの愛情を受けることでは代替されなかったようで、どう見ても、この物語の中で一番「魂が幸いでない人」です。言動はとんでもなく腹立たしいのですが、彼の空回りする憤りは憐れをも誘います。
自分とは違う価値観を持つ人を、受け入れないまでもそっとしておくことができればもっと心穏やかに生きられるのでしょうが、様々な人と関わざるを得ない世の中でこれがいかに難しいことか。納得したような顔をしながら、私の中にも子供のレオがいて、時折「ちがうもん!ちがうもん!」と泣きながら暴れているようです。
(スペース込み1300字)
以下は講評前のバージョンです
<手直し前バージョン>
生き方の価値観は人それぞれ。家庭第一の人もいれば仕事に生きたい人もいる...自分の生き方ビジョンを周囲が必ずしも共有してくれるとは限らないわけで、そこに様々なドラマが生まれます。
本書「喜べ、幸いなる魂よ」の舞台は18世紀のベルギー、フランドル地方。主要登場人物の一人ヤネケは、知能が飛び抜けて高く探究心旺盛な女性。裕福な亜麻商家のお嬢様ですがその行動はかなりぶっとんでいます。きょうだいのように育ったヤンを巻き込んで生殖の「実験」に勤しんだ結果、妊娠。嫁入り前の娘の妊娠は体裁が悪いからと出産まで遠方に送られると、これ幸いと研究・執筆活動に没頭します。そしてこの自由な生活がすっかり性に合った彼女は、出産後も実家には戻らず、女性だけの共同体であるべギン会の修道院で暮らし始め、会の運営に辣腕を振るうのです(生まれた子はすぐに里子に出されます)。
ヤネケを愛し、一人前になったら彼女と結婚し一緒に子供を育てていこうと望んでいたヤンにはこの選択が納得いきません。「なんでだよ、そんなに男(自分)と暮らすのが嫌なのか」、とやりきれない気持ちになるのも理解できます。正直、ヤンの求める「足るを知り、家庭を大切に生きる」ビジョンの方に共感を覚える読者も多いでしょう。しかし時には腹を立てながら、他の女性と結婚したりもしながら(しかもヤネケの指示で)、ヤンは自分を引き取ってくれた養父(ヤネケの父親)から受け継いだ家業を守り、ヤネケの研究・執筆活動をサポートし続けます。
物語中にはヤンをはじめ「今ここにこういう役割が必要とされていて、自分にはそれができるからやる」という行動原理で動く人々がたびたび登場します。「妻業」が得意な人が妻をやり、「母業」の得意な人が母の役割を引き受ける。べギン会では、レース編みの上手い人がレースを編んでパンを焼くのがうまい人がパンを焼き、そうして生産されたものを売って得た利益でコミュニティ全体を運営している。各人が自分にできることを考えて合理的に役割を受け入れ、能力を発揮していく様子は見ていて気持ちのよいものです。しかし、ヤンが本当は”ヤネケに”家庭生活のパートナーになることを望み、それが叶えられず長年辛い気持ちを持ち続けたように、理にかなっているというだけでは心を充足させることができないことも。その極端な例が、ヤネケとヤンの息子レオでしょう。母親(ヤネケ)とのトラウマをこじらせにこじらせて、恐るべきミソジニーモンスターに成長してしまったレオ。彼の欲求は、父親や、他のもっと母性にあふれた女性たちからの愛情を受けることでは代替されなかったようで、どう見ても、この物語の中で一番「魂が幸いでない人」です。言動はとんでもなく腹立たしいのですが、彼の空回りする憤りは憐れをも誘います。
自分とは違う価値観を持つ人を、受け入れないまでもそっとしておくことができればもっと心穏やかに生きられるのでしょうが、様々な人と関わざるを得ない世の中でこれがいかに難しいことか。納得したような顔をしながら、私の中にも子供のレオがいて、時折「ちがうもん!ちがうもん!」と泣きながら暴れているようです。
(スペース込み1309字)
過去2回の講座で「です・ます」であらすじを書くとお伽話っぽくなりがち、稚拙に感じさせないよう書くのは難しい、というお話を伺っていましたので、今回は「です・ます」調で書くことに敢えてチャレンジしてみました。
講評では、「稚拙にならないことに成功している」というポジティブコメントをいただきました。
手直し後の4段落目(物語中にはヤンをはじめ〜)は、本書の主要テーマの一つを捉えていてよい、というコメントをいただき、嬉しかったです。
レオについては、ネタバラシしてしまったか?と危惧していたのですが、「レオのことに触れていたのが良かった」というコメントを他の受講者の方からもいただきほっとしました。
<いただいた修正点コメント>
・ カッコの使い方に問題あり
手直し前の二段落目の最後(生まれた子はすぐに里子に出されます)のところの()の使い方は、楽をするための()使いになっている。こういう()を使うことに慣れると()だらけの文章になってしまう。できるだけ()内に文章を入れないこと。ーーつまり文中に()を使って情報を補うのは比較的容易だが、注釈だらけの読みにくい文章になりがちなので戒めるべし。
また、長編小説や短編集の全体のタイトルには『』を使い、引用符は<>を使うなどして、会話なのか引用なのかを区別すべし。
・文章の中でタイトルと著者名(翻訳の場合は訳者も)を紹介すべし
書評本文以外のところで著者名とタイトルが表示されることを想定していたので重複になるかと思ったのですが、「読者は書評のタイトルや書誌情報部分は案外見ていないので、本文中でも触れておくべき」という指摘がありました。
・手直し前の4段落目は長すぎる。2つに分けるべし。