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与えれば、誰でも幸福になれる

電車でお年寄りや妊婦さんに席を譲らない人が増えている。ある調査結果によると、「あなたは優先席以外でも席を譲るべきだと思いますか」との質問に「はい」と答えた人は全体の約半分(57.1%)に止まり、席を譲る意識が低下していることがわかった。マタニティマークをつけた妊婦さんが目の前にいるのに、眠っていて気づかない振りをする。お年寄りが席を探していても知らん振り。そんな人が増えているようだ。

仏教は、「与えることは善行為の始まり」と教える。「与える」と聞くと、ハードルが高いと思えて「私には誰かに与えられるものなんてないし...」と尻込みするかもしれない。けれど難しく考える必要は全然ない。お金がある人は、できる範囲で寄付をすればいいし、博識な人は、情報や知識を必要としている人に教えてあげればいい。街でゴミを拾うのも、電車で席を譲るのも、立派な「与える」行為になる。

赤ちゃんがニッコリ微笑んだら、周囲の人はとても温かい気持ちになる。体が不自由な人が、家族や介助者を「いつもありがとう」と優しい言葉でねぎらったら、お世話している人は「私は他人の役に立っているんだ」と喜びを得られる。これも与える行為。子供でもお年寄りでも、男でも女でも、貧しい人でも裕福な人でも、誰であれ「与える」ことは日常的にできる。

与えるときの注意点は、「あくまで、さりげなく」。相手に「与えてもらった」と気づかせないスマートさを心がけたい。たとえば電車で席を譲るときは、「どうぞ、ここに座ってください」と言うかわりに、黙って席を立ってドア付近へ移動する。「次の駅で降りるから席を立っただけ」という振りをする。そうすれば、相手は席に座ることができて、なおかつ「席を譲ってもらって悪いなぁ」という余計なストレスを感じないで済む。

自分の近くに座席が必要な人がいたら、「席を譲った方がいいかな?」「席を譲ったら、『年寄扱いするな』と怒られるかな?」「いい人ぶってるみたいで、ちょっと恥ずかしいな...」などと無駄にアレコレ迷わず、すっと席を立つ。相手は何の違和感もなく、「席が空いた。ラッキー」と思って座る。このようにできたら上出来。与えることの喜びだけがある。

ケチな性格では、生きることがツラくなる

「ケチ・物惜しみ」という性格がある。自分のものを他人が使用することを極端に嫌がる性格。自分の方に財産・得が流れてくることは歓迎するが、自分の方から外に出ていくことは阻止する。他人にメリットを与えることは極力しない。このような人とは誰も付き合いたくない。付き合う人は、必ず損する。心は内向的になり、自己がどんどん小さくなっていく。そして生きることが我慢できないほど苦しくなっていく。

反対に、「与える」性格の人は、常に明るい。自閉的な要因はない。自分のものはいつも他人と分かち合って使いたがる。その人の人生は孤独にならない。必然的に周りに多数の人々が生活するようになる。自分の気持ちも他人の気持ちも理解して、どちらにも迷惑にならないような生き方をする。それが慈しみと智慧のもたらすところ。他人と仲良くしていると楽しいだけでなく、慈悲と智慧も湧いてくるので、日々の生活そのものが功徳を積むプロセスになる。物惜しみは苦しみをもたらすが、与える性格を育てる人は、健全な心の持主になる。

与えるばかりでは、損するのでは?

そう不安に感じる人もいるかもしれない。しかし、人生の損得は、電卓で計算するものではない。与えると損すると思うのは、ものの価値を電卓で考えているからだ。与える性格の人の周りには、豊かな人間関係のネットワークができている。自分に何かが必要になった場合は、それを補ってくれる人が大勢いる。土下座して頼まなくても、借用書を書かなくても、周りの友人達は喜んで、その人に必要なことをしてくれる。必要になったときのみ、ものには価値がある。だから、与える性格の人からみれば、自分が与えた分より何百倍も貰っていることになる。与えるという善行為をしていれば、因果法則によって必ず幸福になれる。

ただし、はじめから何倍もの見返りを期待して与えると、与えることには変わりはないが、ケチという暗い不幸の種に水をまいていることになる。なので、期待するほどの幸福にはならない。「誰かの役に立てて良かった」という明るさと喜びと充実感をもって与えるのが、幸福への第一歩。それは世間で言われている「与える人(giver)は豊かになる」という単純な思考の教えではない。不幸を作り出す心の働き、幸福と解脱を体験するための心の成長過程を、悟りの智慧によって知り尽くしたブッダの教えだ。

与える心は、慈悲と智慧の生みの親。

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