機会の平等を考える
平等を考えるきっかけになったのは、ルソーの『人間不平等起源論』である。ルソーは本書で、人間の本性を「自然人」と「人為の人」を比較することで明らかにしようと試みる。自然人とは、日本縄文人のような人である。自給自足的な暮らしで、他者の生存を直接、間接に脅かさない。今風に言えば、自給自足的な田舎暮らしをする人と言える。一方、「人為の人」とは、自然の恵みを過剰に獲得し、それを富として蓄える。さらには、その富を運用してさらなる富を獲得しようとする人である。そこから人々の不平等が拡大したとするのがルソーの主張である。
富のあるなしが、機会の平等を奪うことは日本人の多くの方が実感されることだろう。こういう私も、その一人である。私は、高校から東京の大学に入るにあたり、学費が気になってしかたがなかった。担任H先生に、このことを相談した。
「それならいい制度があるよ。特別奨学金が月額17,000円もらえる。応援するよ。」
H先生の助言により、私はどれだけ勇気をもらったかしれない。
ルソーが「自然人に帰れ」と言ったとしても、99%以上の人は戻れない。歴史を逆戻りさせることは殆んど不可能であるからだ。とすれば、「機会の平等」を制度として整えなくてはいけない。
私は幸いにH先生の応援もあり、特別奨学生として大学教育を受ける機会を得た。が、日本の多くの高校生は、富不足から大学教育機会を奪われている者も少なくない。大学中退者(年間2万人)の多くは資金不足が原因である。このことは、機会の平等が著しく毀損されている国と言える。
ちなみに大学授業料無料の国を上げておこう。フランス、スイス、フィンランドなどOECD加盟国17カ国が無料なのである。
これら学費無料に加えて奨学金制度が充実している。日本の奨学金制度はローン型なのに対して、上記17カ国は返還なしの給付型奨学金になっている。
日本国の政治は、教育投資を怠っている。別言すれば、機会の平等を著しく毀損している。政治の監視とは、税監視だと言っても過言ではない。国のお金がどう使われているか、監視したい。